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愛国心:その4(パート2

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愛国心:その4に関して再度ひろさんの反論があったので、意見を述べたい。
<愛国心の強制に関して>
NHKの受信料の例は、罰則がなくても、法律や社会のしきたりは強制力を持つことがあるという例であげたのだが、いつのまにか受信料の徴収方法や未払い者の同義的な問題等の議論になってしまっている。

ひろさんの反論は、方向がずれていくので、要点をしぼっ
て議論したい。
罰則と法律の強制力との関係、および罰則がなければ法律の制定を安易に認めてもよいかどうかという点である。

まず、
「それでも、受信料未払いはかなりの割合で存在しているわけで、これはやっぱり罰則のない法律は実質的な強制力が無い、ということではないでしょうか」
と、受信料の未払いがかなりの割合で存在している事実のみを捉えて、罰則のない法律は強制力がないと結論付けている。

しかし、先にも述べたように、法律の強制力云々は、罰則いかんにかかわらず民事面で強制執行が行われるから、事実上強制力が付与されている。
強制力の強弱はあるかもしれないが、それは、罰則が定められていても、その軽重により強制力に違いがでてくるのと同じようなものである。
この点をまず見落としている。

次に、現実に法律を守らない者がいる事実のみを取り上げて、それは罰則がないからその法律は強制力がないという単純なものでもないと思う。
たとえば、
受信料未払いがかなりの割合で存在する→法律に罰則がない→法律の実質的な強制力はない。
という理論だと、
交通違反の反則金等の未払いがかなりの割合で存在する→法律に罰則がある→法律の実質的な強制力はないのかあるのか。
刑法違反(殺人、窃盗)が毎日のように報道される→法律に罰則がある→刑法の実質的な強制力はないのかあるのか。
というおかしな展開に発展する。

また、
「日本国憲法は法律上は一番強制力があるわけですが、罰則が無いため、憲法のみでは違反しても処罰されることがありませんから、事実上、強制力は発揮されませんよね」
というくだりにいたっては何をかいわんやである。

ひろさんは、言葉尻にこだわって物事の本質を理解していないように
思われる。
法律に罰則がなければ強制ではないか否かという議論より、罰則がないから強制ではないという理屈で、安易に法律の制定を認めることが重要な問題なのである。

「そこで、今回改正された教育基本法を考えてみると、やっぱり罰則はないわけです。
そして、教育基本法に違反したからといって一般の大人や生徒達が処罰されるような罰則は、他の法律にもありませんよね。ですから、この教育基本法が国民に対して実質的な強制力がない、と自分は思うわけです」
という主張は、強制力がないから改正教育基本法も国民に押し付けることにはならないから賛成だ、という考えだと思う。
事実、<教育基本法改正で思うこと・・・1>で、その点について賛成していた。

そうだとすると、憲法で徴兵制や核保有を認めても、憲法には罰則がなく、強制ではないから是認できるということになる。
罰則は下部法で制定されるので、そのときに反対すればいいなどと思っていても、上部法で認められた事項が、下部法で認められない理由はなく、少々の反対では阻止できないことになってしまう。
しかも、基本法のような上部の法律なら、国民も関心を持って反対もできるのだが、下部法ともなると、おびただしい数にのぼるため、制定や改正に対する賛成、反対の意見どころか、法律そのものの存在さえ大多数の国民は知らないのが現実である。
国民の知らない間にどんどん改正されていってしまうのだ。

そもそも、何の強制力もない法律を、政府与党が、時間と費用をかけ、野党や多くの国民の反対を押し切ってまで、わざわざ成立させるだろうか。
その意図を読まねばなるまい。

条文の文言が美しいから法律を作っただけだと思いますと、ひろさんは考えるのだろうか。
改正教育基本法の条文に賛成するのは勝手だが、それに反対する国民も、賛成者と同数以上にいるのである。

多くの反対がありながら、条文の内容がいい、罰則がないから強制ではない、などいう理屈で、反対意見を十分聞くことなく、安易に法律を是認するようなことだけは、やめてもらいたい

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愛国心:その4(パート1

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愛国心に関する私の記事に関して、ひろさんという方が「教育基本法改正で思うこと3で反論しておられた。見過ごせない点がいくつかあったので、以下順を追って再度反論したい。


1.愛国心教育の是非に関して
「それに、政府にTMでだますような行為があったから法律の内容自体が駄目だ、ということではないわけです。
じゃあ何で政府はTMでそういうことをやったのかと言えば官僚などの政府側の人間が、手続きにおいて面倒なことは起こしたくないと、ただ余計な手間を省きたかっただけだと自分は思うのです。
そういう国民をだます行為自体は処罰・改善されるべきですが、悪いことをする奴が考えた法案だから、その法案の内容も悪い、というわけではないのです」

これは、結果オーライを是認する発言であるが、これを認めると、議会制民主主義は根底から崩壊する。
手続きを無視しても結果がよければよいとは、恐れ入った考えである。

被疑者、被告人にとって有利な法律になっていないといわれる現行の刑事訴訟法でさえ、手続きを無視した起訴は、実際に犯行を行っていたことが明らかであっても、無罪にしかできない。
法律というのは、手続きを無視して定めることのできないものであり、法治国家で、手続きよりも結果を重視する国など、私は聞いたことがない。

2.愛国心の強制に関して
ここの部分の反論に関しては、ひろさんは、何をいわんとしているのか、その趣旨がよくわからなかった。

まず、
「当たり前ですが今回の教育基本法は、背いたからと言って何か罰則とか処分があるわけではありませんよね。
ですから学校が愛国心を教えても、それに従わない生徒がいた罰金とか、懲役とか、何かペナルティがあるわけではないですよね。これって国が子供達に心の内面を強制してることになるのでしょうか」
と、法律で定めても、罰則等がなければ強制ではないと、最初主張していたのが、

「法律はもともと国民の行動や権利を、守ったり保証したり、あるいは逆に制限したり、拘束したり、強制するためのものだと思います」
と、今回は法律の強制力を認める主張になっている。

法律の強制力は罰則等のペナルテイのみの観点から判断するのはどうかということで、罰則の規定のないNHKの受信料等の例を挙げたのだが、その反論についても、趣旨が全くわからない。

「NHKの受信料は国民全員が払わなければいけません。仮に法律が無くても、NHKの番組が見られるという提供されたサービスに対価として料金を支払うということは、常識的に考えても別におかしなことではないと思います。物を買うときにお金を払うのと同じことです」
と、法律の規定がなくても、財貨、サービスの提供に対しては、当然その対価を支払う義務があるかのように断定している。

そうだとすると、公園や一般道路を使用した場合の対価や、救急車を利用した場合の対価も当然支払わなければならないことになり、各市が提供する公共サービスのうち、市道の利用対価と水道の利用対価の有償無償の違いも、説明できなくなるのではないだろうか。

「それに対して、現実のように受信料を支払うことを法律で定められても未払いの人は困っても、きちんと支払っている常識ある人は困ることは何もありません。
ですが、実際には一時ニュースになるほど、滞納・未払いをしている世帯がかなりの割合で存在しています。いくら法律上では拘束力を持っていたとしても事実上、とても強制と言える状態とは思えません。
だからこそ、NHKは民事手続きによる支払い督促などをして支払いを徹底させようとしているんだと思います」
とも述べているが、法律上拘束力があっても、現実は強制と言える状態ではない、ということが、法律の強制力と何の関係があるというのか。
民事手続きによる支払い督促の例も持ち出しているが、民事で強制執行が認められるのは、罰則いかんにかかわらず法律に強制力を認めているからである。

さらに、わかりやすい例を挙げれば、憲法である。
憲法には罰則規定がない。しかしだからといって、憲法に強制力はないなどと考える者は1人もいないだろう。
憲法に罰則規定はなくても、強制力はあるから、それに適う形で罰則規定を盛り込んだ下部法が制定されるのだ。

もう一つ、例を挙げれば請願法である。
憲法第16条には、国民の請願する権利が認められている。
その権利を行使するに当たっての手続きや、請願が行われた場合の官公署の対応等がその請願法には定められているが、この法律にも罰則の規程がない。
ひろさんの理論によると、罰則の規程がないから強制ではなく、請願が行われても、関係官公署は何の処理を行わなくてもよいということになってしまう。

国家権力にとって、まことに都合のよい解釈である。そのような身勝手な解釈で、20数件にも及ぶ私の請願を無視し続けたのか。そう考えると、そのような理屈は絶対に許すことができない。


法律で規定するということは、罰則いかんにかかわらず、強制力を持たせるということである。
                                           続く

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名張毒ぶどう酒事件に関して:その2

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異議審では、犯行に使われた毒物と奥西死刑囚が自白した農薬は違うとする弁護側の鑑定結果の評価が大きな争点となった。

そもそも、鑑定というものは、鑑定する人間によって結果が全く異なってくるという性質がある。
数学の計算式のように、誰が鑑定しても同じ結果が出るものであれば、わざわざ専門家に鑑定させる必要もない。専門家の高度な知識、経験、判断力に委ねなければわからない事項だからこそ、鑑定が必要になるのである。

では、専門家の高度な知識、経験、判断力が全く同じ水準ならば、同じ結果が出るかといえば、そうでもない。水準が全く同じでも、それらが良心に従って正しく駆使されるかどうかが重要であり、その良心いかんによって鑑定結果が全く異なってくるからである。
良心に従い、誠実にこれを行わなければならないという倫理的要請が不動産鑑定士に強く求められているのも、このような理由による。

たとえば、市や県(国も同じ)が公共用地の買収を行う場合には、相場より高く買い、市有地や県有地を売却する場合には、相場より低く売っている。
民間の感覚では逆だが、役所の場合は、自分のお金ではないから、面倒なことは金で解決する傾向が強い。
土地を買収する場合は、骨の折れる地権者との用地交渉を嫌がり、買収価格を吊り上げて土地を高く買うのである。土地を売る場合は、面倒な営業努力をせずに早く売るため安く売ってしまうのだ。

しかし、建前上は適正な価格で売買しなければならないことになっているので、自分たちの意向に合う鑑定評価書を添付して審議会を通している。
つまり、役所にとっては、自分たちの責任逃れのために、鑑定評価書を利用しているに過ぎないのだ。
従って、役所に提出されたものは、役所の意向に適った鑑定評価書だけであり、その内容が適正だから役所が採用したというわけではない。
公平で適正な評価額に頑なに拘る鑑定士は、必要とされない。役所に提出された時点で、役所の意向が反映された鑑定評価であると見て間違いないのである。

裁判における鑑定も、本質は全く同じである。
検察側の鑑定は、検察側の意向の反映された鑑定であり、弁護側の鑑定は、弁護側の意向の反映された鑑定である。意図に反する鑑定は表に出されることはないのである。

しかし、もっとも問題なのは、そのように異なった鑑定結果が出された場合、どの鑑定が正しいか、鑑定内容に全くの素人である裁判官では、正確に判断ができないということである。

先の例でも、役所の意向の反映された鑑定評価書が、公平さを欠く偏ったものかどうかは、素人には判断できない。

鑑定評価書に採用する取引事例ひとつとっても、現実には高い取引価格の事例もあれば、低い価格のそれもある。
鑑定評価書に採用する取引事例は現実に取引されたすべての取引事例を採用するわけではなく、その中の一部の事例を採用するだけである。
高い評価額を出す場合は高い価格の取引事例を採用し、低い評価額を出す場合は、低い取引事例を採用して形式を整えるので、鑑定評価書上からは、矛盾がなかなか露呈しない。

それが不当かどうかは、多くの取引事例に熟知し、価格形成の要因、過程を正確に分析できるだけの専門的な知識、能力がなければならない。

従って、裁判官も、異なる鑑定結果がある場合、いずれの鑑定が正しいか正確には判断できず、どれを採用するかは、裁判官個人の独断による。
職業的な信条や、置かれている立場からの思惑だけで結論を出すことが多いのだ。

原決定(名古屋高裁の再審開始決定)で、
「薬物に関する新証拠(鑑定など)に基づき、ニッカリンTであれば当然検出されるはずの物質(トリエチルピロホスフェート)が飲み残しのブドウ酒から検出されておらず、犯行に使用された農薬はニッカリンTではない可能性が高い」
としたのを、 異議審で、
「新証拠の鑑定内容を詳細に検討すると、混入されたのがニッカリンTであってもトリエチルピロホスフェートが検出されないこともあり得ると判断され、使用された農薬がニッカリンTでないとはいえない」
とし、
「毒物は有機燐(りん)テップ製剤であることが判明しており、有機燐テップ製剤であるニッカリンTが使用された可能性は十分に存する」
としたのは、鑑定結果を正確に判断したのではなく、異議審のそういった裁判官個人の独断で判断されたに過ぎないのである。

「混入されたのがニッカリンTであってもトリエチルピロホスフェートが検出されないこともあり得る」
と判断する以上、
「混入されたのがニッカリンTであれば、トリエチルピロホスフェートが検出されることが多い」
と判断しなければならないし、
「使用された農薬がニッカリンTでないとはいえない」
という以上、
「使用された農薬がニッカリンTであるともいえない」
という結論になるのである。

また、
「原決定は、新証拠(鑑定など)に基づき、証拠物の四つ足替栓は本件ブドウ酒瓶のものではない可能性があるというが、本件の瓶に装着されていたものに間違いない」
とも言っているが、確かな根拠を示さず、自分が見ていたような言い方をしている。
このようないいかげんな判断で、1人の人間の命を奪ってもいいのだろうか。

自白の信憑性についての判断も、まったくいい加減である。
三角関係の清算が動機であれば、二人の女性と楽しむ男が、自暴自棄に等しい妻や愛人を含む5人の命まで奪う行動に出るだろうか。三角関係の清算なら、妻か愛人のどちらか一人だけを始末するのが普通である。
それに、三角関係で一番悩むのは妻である。自暴自棄になった妻が自らの命も含めて清算行為に及び、毒物を混入するという無差別殺人を行ったのではないか。

奥西死刑囚は、いったんはその真実を語ったが、浮気という自分の責任で妻を死にまで追いやった悔悟の念から、死んだ妻の名誉を考えて自分がやったと自白してしまったのではないだろうか。
当然、起こる疑問である。

「奥西には妻と愛人を殺害する動機となり得る状況があったこと、犯行を自白する前には明らかに虚偽の供述で亡くなった自分の妻を犯人に仕立て上げようとしていることが認められる」
とか、
「自らが極刑となることが予想される重大犯罪について進んでうその自白をするとは考えられない」
などと決めつけるのは、まさに、人情に疎い世間知らずの石頭裁判官の机上論に過ぎないのである。

「疑わしきは被告人の利益に」という原則を拠りどころにすれば、今回の再審開始決定の取り消しは、不当以外の何ものでもない。


 

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名張毒ぶどう酒事件に関して:その1

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三重県名張市で1961年、女性5人が死亡した「名張毒ぶどう酒事件」で、死刑判決が確定した奥西勝・元被告(80)の再審開始決定に対する異議審で、名古屋高裁(門野博裁判長)は26日、検察側の異議を認め、昨年4月に同高裁が認めた再審開始の決定と死刑執行の停止を取り消した。
無罪へとつながる再審開始の是非をめぐり、同じ名古屋高裁が全く反対の判断を示すという異例の事態に、弁護側は決定を不服として特別抗告の方針を表明。審理は最高裁で続くことになる。
決定理由で、門野裁判長は「新旧証拠を検討しても、奥西元被告が犯行を行ったと十分認定することができ、自白の信用性も高い。確定判決の事実認定に合理的な疑問は生じない。(再審開始を認めた)決定は誤っている」と述べた。

まさか、という決定である。
一度認めた再審開始決定を、同じ名古屋高裁が取り消すとは。
奥西元被告の年齢とこれまでの勾留期間を考慮すると、公権力による著しい人権侵害に、激しい怒りを禁じ得ない。

この「名張毒ぶどう酒事件」の弁護団には、私の知人の弁護士もかなり以前から加わっており、他人事とは思えない事件であった。
しかも、決定を取り消した門野博裁判長は、私の控訴審判決で一審の有罪判決を破棄しながら、控訴審での検察による訴因変更を認めて有罪判決を下した、いわくの裁判長である。

「名張毒ぶどう酒事件」では、農薬の混入されたぶどう酒の王冠の歯型が、犯行を裏付ける唯一の物証とされ、その鑑定結果をめぐって一審は無罪、二審以降は、逆転の有罪死刑判決となっている。
その後の再審請求で、弁護団は王冠の新たな鑑定結果などを提出し、今回の第七次再審請求でも、ぶどう酒の開栓実験や農薬の成分鑑定などを新証拠に提出していた。

その結果、名古屋高裁は弁護団の主張をほぼ受け入れて一度は再審開始を決定したが、検察の申し立てによる異議審でそれが取り消されてしまったのである。

本事件では、鑑定結果が非常に重要な証拠になっており、異議審でも弁護側の鑑定結果の評価が大きな争点となったので、ジャンルは違うものの、同じ鑑定士という立場から、鑑定についての実態をまじえて意見を述べてみたい。
                                          以下続く

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愛国心:その3

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愛国心に関する私の記事に関して、ひろさんという方が「自分が書きたいことを書くブログ」
http://diary.jp.aol.com/wtxgjv9kdqpd/26.htmlで異見を述べておられたので、再度取り上げてみたい。

一、愛国心教育の是非
ひろさんは、
「自分が半兵衛さんのブログを読んで感じたことは愛国心を学校が教えたり評価すると国が定めることがそれほどいけない事なのかどうか、ということです」
と、述べておられるが、まず、私は愛国心を学校で教えることがいけないとは一言も述べていない。
愛国心は、強行した教育基本法改正に関連して取り上げたのであり、愛国心を前面に出した改正が、どのような目的でなされたか、ということを問題にしたのである。

学校での愛国心教育の是非については、いろいろな問題があり、簡単に結論の出るようなものではないので、国民をだますようなやり方で慌てて改正してまで教育基本法に盛り込まなければならなかったのか、ということで述べたのであるが、この機会にその是非についての考えを、はっきりさせたい。
以下、順次反論しながら意見をのべる。

二、愛国心の強制
「当たり前ですが今回の教育基本法は、背いたからと言って何か罰則とか処分があるわけではありませんよね。ですから学校が愛国心を教えても、それに従わない生徒がいたら罰金とか、懲役とか、何かペナルティがあるわけではないですよね。これって国が子供達に心の内面を強制してることになるのでしょうか」
と、ひろさんは述べておられるが、強制ということを罰金や懲役等のペナルティのみの観点から捉えるのはどうかと思う。

たとえば、NHKの放送受信料は法律で受信契約を義務付けてはいるものの、罰則の規程はない。罰則の規程がなくてもそれなりに強制力を持っており、ほとんどの人は受信料を支払っている。
また、いじめに加担しなければ、何々の罰を与えるというはっきりした懲罰の取り決めがなくても、加担しなければ何らかの不利益が自分に及びそうだという雰囲気があれば、それだけで罰則以上の強制力を持ってくる。

特に、行政の現場では、はっきり規定された罰則で処分されることのほうが、むしろ少ないのが実態である。
私も経験したことだが、役所が気に入らない業者から仕事を取り上げる場合は、本人から仕事を辞退させるという陰湿な方法をとる。本人が辞退を拒めば、所属する業界団体に圧力をかけて無理やり辞退させるのである。規則に違反していないから、指定業者から外されないなどと思ったら大きな間違いである。
愛人と官舎に住んでいた本間政府税調会長にしても、規則違反の罰則で処分されたわけではなく、周りの圧力で自分の意思に反して辞任せざるをえなくなったのだ。

このように、罰則や処分が決められていないから、強制ではないとはいえないのである。

三、愛国心の評価
「それに自分は学校が愛国心を評価をすることはいけない、とは思いません。なぜなら、心の問題を指導・評価するのも義務教育の一環として必要だと思うからです」
と、ひろさんは述べ、更に、学校における理科の実験の取り組みや、その他の課題授業の取り組みの姿勢、意欲等を例に挙げ、「関心・意欲・態度」の欄ですでに内面の評価がなされており、愛国心だけが、なぜ、学校教育において評価対象としてはいけないのか、と疑問を投げる。

しかし、課題授業の取り組み等における「関心・意欲・態度」等の評価は、あくまでも、理科の実験のように、ある目的を達成する過程において現れた外面の現象を評価しているのであって、心の内面そのものを評価しているわけではない。愛国心が理科の実験のような課題授業の取り組み等と同様に論ずることができないのは、達成しようとする目的がはっきりしないからである。

国旗を揚げるとか、君が代を歌うとかいう目的を掲げ、それに取り組む「関心・意欲・態度」等を評価するのであれば、わざわざ教育基本法という法律に盛り込むことでもなかろう。
それらは、愛国心とは関係のないことであり、式典における国旗掲揚の際の態度や国歌を歌うときの態度いかんは、本来、生活態度等の常識の問題だからである。

四、愛国心の欠如
「愛国心や公共心などを軽視しがちな今の現状があって、それは良くないから明確に国の方針として法文化して、学校で教える事にしましょう、ということだと思うのです」
と、ひろさんは述べておられるが、そもそも今の日本人に愛国心がないと断定できるのだろうか。

学校の行事によく参加される方なら当然気づいていると思われるが、どこの小中学校でも、入学式や卒業式等の行事で、国旗の掲揚を拒否したり、君が代の合唱を拒否したりする生徒は、ほとんど見かけないのが実情である。
私も、子供3人の学校行事に何度か出席したが、そのような光景には、ついにただの一度もお目にかかったことがない。

国旗掲揚等を拒否するのは、思想的な問題にこだわる一部の教師だけであり、そういった報道の一部の例をことさら大げさに取り上げて、愛国心教育に結びつけているだけではないか。

また、国旗、国歌の絡む式典での態度がいいからといって、愛国心があるわけではない。同時に、国旗掲揚を拒否する教師に愛国心がないかといえば、そうでもない。
国を愛する気持ちは国旗掲揚を拒否する教師にもあるはずであり、漫然と国の方針に従っている無関心な国民より、そういった教師のほうがむしろ国を思う気持ちは強いのではないか。

オリンピックの競技等で、日本人であれば誰しも日本人選手を応援するだろう。それもひとつの、愛国心の現われといえるのではないだろうか。
愛国心が欠けているのではなく、愛国心を何と捉えるかという見解の違いであろう。

四、道徳教育との関係
「それに学校では道徳という心の内面を教育する科目があるではありませんか」
と、ひろさんは述べ、その道徳教育との関係で愛国心教育の正当性を訴える。

だが、道徳教育も、礼儀、あいさつ、助け合い、親切、親孝行といった外面に現れる現象との関係で、内面である心の持ち方を教育するものであり、外面に現れる現象がはっきりしない愛国心教育とは、本質を異にする。
愛国心は外面に現れるどのような現象との関係で評価し、教育するかということが、よくわからないのである。

先に述べた国旗、国歌の絡む式典時の態度で評価するのか、それとも、徴兵制に異議を述べず、積極的に戦地に赴く意欲・態度等で評価するのか。あるいは、政府に対する批判、賞賛の態度等で評価するのか。

まさか、政府に批判的でも、同一国民を愛する意欲・態度等が立派であれば高く評価されるなどと思っているお人よしはいないだろう。
愛国心の概念があいまいなため、それを運用する国側の都合のよいように利用される危険性が高いことは、以前述べたとおりである。

五、愛国心の比較
多くの日本人が外国人と比べて、一般的に愛国心が極端に劣っているとは思えない。
ただ、日本人が外国人と比べて大きく劣っていると思われる点もある。
それは、政府を信頼する気持ちと、戦争に参加しようとする意欲の二点である。

前者は、北朝鮮による拉致問題、中国
瀋陽市の日本総領事館への北朝鮮難民駆け込み事件の対応、信念のない自衛隊のイラク派遣政策等に対する国民の反応等で明らかである。
また後者は、本来命をかけて任務を全うするのが当たり前の仕事に就いている本職の自衛隊員でさえ、命の保障云々を持ち出してイラク派遣を嫌がっていたことでもわかる。

六、結論
「ですから、結局、前回にも書いたように、愛国心や公共心などを軽視しがちな今の現状があって、それは良くないから明確に国の方針として法文化して、学校で教える事にしましょう、ということだと思うのです。よって自分は、国が強制することになるからいけないこと、とは思わないわけです」
と、ひろさんは述べておられるが、以上検討したように、愛国心の法文化は、国の都合のよいように解釈した身勝手な理屈を国民に強制してくる事態につながる危険性が非常に高いため、安易にそれを認めてはならない。

愛国心教育が必要なのは、子供たちではなく、国民に信頼されていない政府自身である。
戦前の我が国における愛国心教育の失敗例を、もう一度かみしめる必要があるのではないだろう
か。

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植草一秀氏の公判に思う

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12月20日植草一秀氏の第二回目の公判があった。
当日の目撃者の証人尋問に関しては、すでにいくつかのブログで疑問点が指摘されているので、重複を避け、私は次の二点だけ指摘したい。

第一に、利害関係のない目撃者が他人の裁判の証人として出てきたことの不自然さである。

通常、事件当事者と全く関係のない第三者が裁判の証言台に立つことなどありえない。当事者とよほど深い関係がなければ、証人として裁判に出ることなど考えられないのである。

最近は、空き巣や器物損壊等の被害にあっても、警察は隣家への聞き込みを一切しない。被害者がいくら強く求めても、警察は頑なにそれを拒否する。
聞き込みをしても、かかわりを嫌って情報の提供を拒む上、仮に情報が得られても、証人として証言してくれることは100%ないからだという。
変に追及すると、犯人扱いにされたといって、名誉毀損で逆に訴えられることもあるからだともいうのである。

私自身、仕事の関係で警察官とはよく接触するが、知人の警察官も、情報不足をいつも嘆いている。
昔は、犯罪情報が市民から警察に多く寄せられたものだが、最近は、全く情報が入ってこないという。無関心で、自分に何らかの危害、不利益が及ぶのを極端に嫌う風潮が強く、どこの警察署も情報不足で困っているという。
それほど人々は、自分に関係のないことにかかわりを持つことを嫌がるのだ。

鑑定人として裁判の証人になる機会の多い私たち不動産鑑定士でさえ、証人として証言台に立ちたがる者は1人もいない。
訴訟関連の鑑定では、いかに証人として呼ばれないようにするかということに注意を払って価格や賃料を決めている傾向が強いし、信託銀行や大手の鑑定会社では、証人として呼ばれた場合の時間やわずらわしさによる採算面で訴訟関連の仕事の依頼は、最初から拒否しているところも多い。

刑事裁判の訴訟ともなれば、公判当日の時間だけでなく、事前の準備段階における時間的な負担も多く、証言内容によっては、偽証罪で告訴、告発される危険性もある。何のメリットもない微罪事件でわざわざ証言台に立つ者など、現実には一人もいないといっていい。

以上のような現実から判断すると、証人の証言内容以前に、今回の公判における目撃者が全くの第三者で、ほんとうに事件を目撃していたのかどうか、大きな疑問を抱かざるを得ないのである。

せめて反対尋問で、証人である目撃者を追及して、職業、事件当日の行動、行き先等を明らかにしてほしかったという思いが残る。

第二に、被害者の
下着が証拠として提出されているという点である。
強姦事件ならばともかく、通常、痴漢程度の微罪事件で、被害者の下着が証拠保全されることなどありえない。
被害者の心理状態からみても不自然だし、警察の捜査方針からみても不自
然である。

女性の下着というものは、すぐに洗濯する性質のものであるから、それが証拠保全されるということは、被疑者が犯行を強く否認することが事前に予測できなければならないし、被害女性の確固たる協力が事前に期待できなければならない。

被疑者である植草氏が犯行を強く否認することが事前に予測でき、被害女性の確固たる協力が事前に期待できたということが何を意味するか、わざわざ私が言わなくても、その答えは明らかだろう。

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植草一秀氏のメッセージに関して

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先日の控訴審判決で、罰金という有罪ながらも、不当な一審判決が破棄され、事実認定で私の主張がほぼ全面的に認められた。
一審の裁判状況の説明も途中であり、控訴審の罰金刑に対しても、上告したため刑事裁判もまだ終わっていない状況では
ある。
しかし、ひとつの区切りがつき、
当面それほど急ぐ理由もなくなったので、これからは、私個人の無実だけでなく、他の冤罪と思われる事件にも、積極的に取り組んで不当性を訴えていきたい。

まず、植草一秀氏。
一昨日、AAA植草一秀氏を応援するブログ管理者の方から、次のトラックバックをいただいた。植草氏と同じような立場にある者として、ここに紹介してひと言意見を述べたい。

植草一秀氏より、応援して下さる皆様に感謝の気持ちでいっぱいであることを
是非お伝え下さいとメッセージをお預かりしましたので、お読みください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私は偽り無く元気にしていますので、ご安心下さいませ。
皆様で楽しくクリスマスなどおすごし下さい。
私はここで一人ですが、時空を越えて素晴らしい人達と心でつながっているので、幸せな気持ちで満ちあふれています。

こうした幸せな心ですごせるのも皆様のお陰です。
本当にありがとう。

私が応援して下さる皆様に感謝の気持ちでいっぱいであること、
そしてとても心身ともに元気でいることを是非皆様にお伝え下さい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


植草氏は痴漢容疑ですでに98日も勾留されている。

不当な勾留である。
逃亡や罪証隠滅のおそれがなく、勾留理由がないにもかかわらず、公判の開始された現在に至っても、保釈さえ認められていない。
しかも、一旦裁判所が認めた保釈を、検察官の抗告によって2度も取り消されている。


役所というところは、一度決めたことはなかなか変えないものだ。
特に、権威にこだわる裁判所は、一度下した判決を翻すことはほとんどない。上級審でも、一度下された判決は極力尊重し、よほどのことがない限り、下級審の判決でも変更しない。

その裁判所が、2度までも保釈の裁判を変更しているのである。
普通では、考えられないことだ。それだけ、裁判所に権力側の圧力が強くかかっている証左であろう。


裁判所が容易に保釈を認めないのは、悪いことをやったのだから頭を冷やさせるという意味合いもあるのだろうが、被疑者や被告人にも基本的人権はある。それを守るのが、裁判所の本来の使命であろう。
ましてや、無実の疑いがあるような場合には、悲惨な人権侵害にも結びつくのだ。そのことを、わきまえねばなるまい。

裁判官対被告という立場にこだわるのではなく、同じ人間という立場に立って、人権を侵し続けている不当な勾留を一刻も早く解くことを、私は裁判官の良心に強く訴えたい。

また、マスコミには、警察や検察からの偏った情報だけを報道するのではなく、当該事件の真相をもっともよく知っている被疑者や被告人への取材も行って、その言い分も反映した公平な報道をすることを、切に求める。

前回の手鏡事件で、裁判所に向かう植草氏を追いかけながら、
「植草さ~ん、今日は手鏡持ってきてないんですか~」
と、マイクを向けて質問していた報道関係者がテレビに写っていたが、真相に迫る取材ではなく、こういう人権を考慮しない低俗な質問をするところに、今のマスコミの節操のない実態が現れている。

社会に与える影響の大きさと使命を、マスコミ関係者はもっと自覚すべきだろう。

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愛国心:その2

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コメントでも述べたように、愛国心の本質が何であるかというと、私も断定できるほど自信のある見解は持っていない。
愛国心というのは、心の問題であるから、愛国心の本質を語るのは、宗教の本質を語るのと、ある意味同じではないかと思う。それほど難しい問題だからである。
私がこうだと言えば、多くの賛成意見があるかもしれないが、同時にそれと同じぐらいの異論、反対意見も出てくるはずである。

私が、今回の教育基本法改正を批判した理由も、この点にある。
法律は手続きであるから、賛否両論のある内容の法律を、十分な審議をせずに、「やらせ」のタウンミーティングで国民を騙し、数の力でごり押しして成立させるようなやり方が、まず問題なのである。

たとえ、殺人のような凶悪事件でも、逮捕、起訴に至った手続き、証拠を押収した手続き等が違法であれば、その犯人が実際に犯行を行っていても、刑事訴訟法上、有罪にはできないのだ。それほど法律は、手続きを厳格視している。

愛国心が必要だという点では、多くの国民に異論はないはずである。国を愛することは美しいことであり、それ自体に異論を唱える者は、極めて少ないと思う。

ただ、愛国心の概念がはっきりしないのに、それを法律に盛り込んで、しかも数の力で慌てて改正しなければならなかったのか、ということである。
愛国心の概念がはっきりしなければ、それを運用する側に都合よく利用されるのは必然だ。

学校での愛国心教育について、安部首相はそれを成績として評価するという考えを述べていたが、愛国心は心の問題であるから、それを評価するとなると、内面の心の中まで立ち入らなければならなくなる。

心の中まで行政が立ち入ることが、はたして、許されるべきことかどうか。

たとえば、人を殺したいとか、人の物を盗りたいとか思っても、思っただけでは処罰されない。現代はどこの国家も、心の中まで法律で処罰するようなことはしていないのだ。
信仰の自由が認められているのも、同様に心の問題だからである。

学校で愛国心を成績評価するというのは、人の心の中まで縛るということである。
実際上は、心の中まで立ち入って評価できないから、外面の姿勢や態度で評価するしかない。そうなれば、国旗掲揚や君が代唱歌時の態度、国家的儀式や国家への忠誠心の態度等で判断されることになる。

どこの国でも、教育というものは、国の都合のよいように行われている。
国が目的なく、教育方針を定めたり変えたりすることなどありえない。今回、愛国心を前面に出した改正が、どのような目的でなされたか、ということである。

「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」とともに、「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」と謳っているが、愛国心をやたら叫ぶ人間ほど、愛国心に欠けており、他国を尊重せず、攻撃的な言動をする傾向が強いことを憂慮して、改正に踏み切ったのか。


それとも、一等地の豪華な官舎に愛人と入居して血税を食いつぶす本間正明政府税調会長のように、政府与党関係者の愛国心のなさを憂いて、美しい国づくりのために改正に踏み切ったのか。
あるいは、憲法を改正して軍事力を強化するための布石として、急いで改正に踏み切ったのか。

改正教育基本法の成立した過程を客観的に考察すれば、その答えは自ずから明らかではないだろうか。

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愛国心:その1

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15日の教育基本法改正を批判するという当ブログ記事で、次のようなコメントをいただいた。


>土地を指すのであれば、土地を所有していない者は、愛情を感じないだろうし
愛情を感じるための前提が所有することだとは、まったくかわいそうな人だ。あなたは他の人間を所有することはできないのだから、あなたは他の人間に愛情を感じることができないことになる。
人を愛することさえできない人が「愛国心の本質を、全く理解していない」というのは興味深い現象だ。
ところで仰るところの愛国心の本質とはなんなのだろうか。ご教授願えれば幸いだ。

これに対して、私は次のようなコメントを返した。


コメントありがとうございます。
ご指摘のとおり、私の言葉に一部不十分な表現がありましたので、ご説明させていただきます。
「土地を所有していない者は、愛情を感じないだろうし」というのは、あくまでも一般的なことを述べただけです。
私の仕事は、土地とは切っても切れない関係にあり、仕事柄、土地にせよ建物にせよ、所有者に比べて賃借人等は、土地建物そのものに愛着を感じない傾向が強いことは、日頃実感しているところです。
土地に限らず、他人の所有物より自分の所有物に、より愛情を感じるのは、一般的な人間の傾向ではないでしょうか。私が述べたのは、その程度のことに過ぎないのです。
従って、私が「愛情を感じるための前提が所有することだ」と断言しているようにおっしゃるのは、全くの誤解だということです。
愛情の本質は、もちろん、所有云々ではありません。好きになった異性を自分のものにしようとか、他国を植民地にしようとかいう所有の概念を持ち出すこと自体が、本来悲劇の始まりである現実を考えれば、愛情の本質が、所有云々でないことだけは確かだと思います。

愛国心の本質が何であるかということですが、私も断定できるほど自信のある見解は持っていません。
しかし、少なくても、国旗を掲揚したり、国歌を歌ったりすることだけが愛国心の本質でないことだけは確かです。また、学校の成績で人間の心の問題である愛国心を評価するというのも、おかしな話ではないでしょうか。
愛国心というと、とかく感情的になりがちで、本質を見失いやすい性質であるからこそ、もっと議論が尽くされなければならなかったのです。
「やらせ」のタウンミーティングで国民を騙したり、十分な論議もせず、多数の力で自分たちの主張をごり押ししたりするような政府に、愛国心があるのでしょうか。

愛国心を持ち出した政府与党に、私の方こそ、愛国心の本質をご教授願いた
い心境です。

15日に成立した改正教育基本法は、「教育の目標」(二条)に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」との表現で、「愛国心」の理念が盛り込まれている。

愛国心が前面に押し出されているので、それについて、一言述べてみたい。

続きは午後に。

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警察の泥棒化

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警察の泥棒化が進行している。

神奈川県警は15日、勤務中に民家から現金を盗んだとして鎌倉署地域課の巡査長・望月賢治容疑者(38)を窃盗と住居侵入容疑で、また架空の事件の捜査関係事項照会書を作って女性の個人情報を入手したとして茅ケ崎署警務課の巡査部長・渡辺恒憲容疑者(49)を虚偽有印公文書作成、同行使容疑でそれぞれ逮捕した。

12日には、神奈川県警港北署地域課の巡査長(36)が、同署が廃棄する予定で保管していた放置自転車を無断使用中に、神奈川署員に職務質問されていたことが分かり、県警監察官室は、巡査長を不問にした港北、神奈川両署長に窃盗容疑での捜査を指示したというニュースがあった。

また、先月19日には、窃盗未遂事件の証拠品の現金約7万5000円を着服したとして、同県警の瀬谷署元警部補(59)が業務上横領容疑で逮捕されたばかりでもある。

いずれも神奈川県警ではあるが、こういった警察官による不祥事は、同県警に限ったことではない。神奈川県警の場合、何かと問題になったため、警察内部で握りつぶせなくなって、表ざたになっただけだろう。

犯罪事件は、通常、警察回りの事件記者が、警察からの情報のみで記事を書いている。被害者や被疑者への取材は、よほどの場合でなければ行われない。つまり、100%警察の情報に頼っていると言っていい。
従って、出入している警察の意向に反して新聞記事を書くようなことをすれば、出入禁止になって、その後のニュースが得られなくなる。警察官の不祥事がなかなか表ざたにならないのは、こうした事情による。

だから、明るみに出ないだけで、他県の警察でも、同じように不祥事が頻繁に起こっていると見て、まず間違いあるまい。

以前、当ブログでも書いたことだが、私の場合も、泥棒のような被害にあった。
愛知県中警察に逮捕され、東警察署に勾留されていた1ケ月の間に、財布の中に入れていたクレジットカードが、スキミングされていたのである。
幸い、私の場合は、起訴されてまもなく保釈が認められたため、被害を未然に防ぐことができたが、保釈が認められず実刑判決を受けてそのまま服役するような受刑者は、スキミングされたカードを散々使われて大きな損害を蒙ることにもなりかねない。
勾留中に、警察署に預けられていたクレジットカードがスキミングされるのであるから、今の警察は想像以上に腐っているとみて、まず間違いあるまい。

同15日、
捜査費の不適正支出問題で、警察庁と高知県警などは、当時の県警本部長ら計113人に対する処分を発表した。
不適正支出について県警は、協力者保護の目的や店名を忘れて確認を誤ったため、実際に利用した店とは別の店名を記載するなどした経理ミスが大半で、プール金や私的流用などはなかったと説明しているが、額面どおり信用できるものではない。

北海道警や愛媛県警等も裏金づくりを行って、警察幹部のヤミ手当や交際費、せんべつなどに不正支出していた実態が明らかになっているからである。

これらは、業務上横領や虚偽公文書作成、有印私文書偽造などの犯罪を構成するが、警察幹部が裏金づくりを指示し、責任者もそれを容認するという組織ぐるみの犯罪の上、公訴権を有する検察が警察と癒着しているから事件になっていないだけである。

いわば、税金泥棒であり、警察の泥棒化である。
しかも、一警察官の個人的な犯罪ではなく、警察全体の組織的な犯罪である。

与党が法案の成立を目指している共謀罪の適用団体(組織的な犯罪集団)に、日本の警察を、ぜひ含めなければならない。


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教育基本法改正を批判する

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教育基本法改正案が参院教育基本法特別委員会で、自民、公明両党の賛成多数で可決された。
タウンミーティングでの「やらせ」質問で激しい批判を浴びながらも、数の力で押し切った格好だ。

これで安倍内閣は、崩壊へ向けて大きな一歩を踏み出したといえるだろう。

教育基本法改正案の骨子に、
「公共の精神を尊び、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進」
と掲げられているが、公共の精神で臨まなければならない行政が、タウンミーティングで国民を欺く嘘まみれの「やらせ」を行っていたのだから、呆れてものが言えない。
また、
「我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う 」
と、立派なことを言っているが、これは誰に対して言っているのか。

愛国心が一番欠如しているのは、今の子供たちではなく、安倍総理を筆頭とする与党の政治家や官僚どもではないのか。

愛国心と一言でいうが、愛国心とは一体何なのだ、という疑問がまず起こる。
国を愛する心ということはわかっても、その国が何を指すのか不明である。自分たちが住んでいる土地を指すのか、国民を指すのか、政府を指すのか、天皇を指すのか。

土地を指すのであれば、土地を所有していない者は、愛情を感じないだろうし、国民や政府を指すのであれば、その国民や政府が愛する対象となるだけの値打ちがあるかどうかによる。
いくら教育を施しても、対象となる大人や政府の役人、政治家たちが腐っていれば、子供たちに愛国心など育まれるものではないからである。

親が日常的に子供を虐待し、自分たちは遊びほうけて、子供の面倒を全くみないような家庭環境では、子供に親孝行をいくら説いても無理である。
今の日本人に愛国心が希薄なのは、上に立つ大人や政治家たちが腐敗して尊敬するに値しないからだろう。

数々の特権をむさぼり、国民の税金で優雅な生活を送っておきながら、国民には増税や各種の負担を情け容赦なく押し付ける。

教育というものは、元来非常に時間のかかるものであり、長い目で、根気よく続けていかなければ成果の出ないものである。
改正を急ぐような理由も見当たらず、十分な論議も尽くされていなかった。
「やらせ」のタウンミーティングで国民を騙したことが明らかになったばかりであるにもかかわらず、多数の力で自分たちの主張をごり押しするような政府を、一体誰が愛するというのだろうか。

以前、愛国心が身についたかどうかを成績として評価するのかという質問に、安倍首相は、「日本の伝統・文化を学ぶ姿勢や態度を評価対象とする」という考えも述べていたが、これなどは愛国心の本質を、全く理解していない回答である

こういう首相を持ったところに、今の日本人の不幸があるが、いつまでも国民を欺き通せると思ったら、大きな間違いだ。
最近、安部首相の支持率も下がっている。あんまり国民を見下していると、来年の参院選で、まず、手痛いしっぺ返しを食らうことを覚悟すべきだろう。

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小泉前総理の靖国参拝を斬る

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何かと話題になった小泉前総理の靖国参拝。
総理在任中、公人という立場のまま毎年靖国参拝を繰り返し、任期の満了を迎えた今年は、中韓の激しい批判、反発を受けながらも、終戦記念日である8月15日に参拝を断行した。
退任して下火になった今、その真意を私なりの視点で分析してみたい。

小泉前総理は、靖国参拝の理由を、先の大戦で戦没した多くの犠牲者に対する慰霊の念からだと何度も訴えていた。
今日の日本の平和は、勇敢に戦って戦死した多くの将兵や国民の犠牲によって成り立っているものであり、その英霊に拝礼することは、国の代表者として当然の義務である、と一貫して主張していた。

将兵の戦死や国民の犠牲が、今日の日本の平和に関係があるのかどうか甚だ疑問だが、その主張には一応頷けるものがある。

だが、それは表向きの理由であり、真意は別のところにある、と私は見ていた。
戦死者に対する彼の慰霊心はもともと希薄であり、靖国参拝は、あくまでも政治的な道具として利用したに過ぎないという見方である。

政治的な道具とは、彼が唯一執念を燃やした、郵政民営化実現のためということである。

小泉前総理は弱小派閥だから、自民党内での基盤は脆弱であった。その脆弱な基盤のもとで郵政民営化の妨げとなる強力な反対勢力に対抗するには、国民の強い支持が必要である。
彼は、この国民の強固な支持を得る手段として、靖国参拝を利用したのではないだろうか。

過日、NHKのテレビで、第2次世界大戦時の最も悲劇的な戦いと言われる「硫黄島の戦い」で生き残った人の特集を見た。
その人たちは、みな自分が生き残ったことに、強い後ろめたさを持っていた。戦争を起こしたのは、彼らの責任ではない。
が、ほとんどの兵士が戦死しながら、自分が生き残ってしまったことに強い慙愧の念を抱いている。
ともに戦って戦死した部下や戦友を慰霊するため、毎朝、水を備えて手を合わせる生き方をしていた。戦死者の英霊を慰霊することだけが、彼らの残された人生の生き方だったのである。

戦死した多くの将兵や犠牲者になった国民の慰霊のためと言いながら、小泉前総理は、年に一、二回靖国神社に参拝しただけである。官邸に登庁する前や休日にも、毎日のようにひっそり拝礼していたというわけではない。
ほんとうに、戦没者の慰霊を思うものならば、宗教心の薄い初詣程度の回数の参拝で終わるわけがないのである。
小泉前総理の慰霊心など、所詮その程度である。

公人の立場で靖国参拝を強行すれば、過去の歴史認識に固執する中国や韓国の激しい非難、反発が起こることは、当然予測できた。実は、彼の狙いは、ここにあったのだ。

中韓の激しい非難、反発が起こると、どうなるか。
中韓を怒らせ、日中、日韓の関係が悪化するのは我が国にとってよくないから、靖国参拝を控えるべきだという意見もあった。
しかし、見境のない激しい非難を繰り返す両国に、多くの国民は嫌悪感を感じ、逆に中韓に対して激しい敵対心を持つに至った。外の国に敵対心を持った国民は、激しい非難を浴びながらも超然として自説を曲げない自国の総理に頼もしさを覚え、彼を熱烈に支持するようになる。

実際、憲法的な見地から首相の靖国参拝に批判的だった私でさえ、内政干渉に等しい中韓のあまりの反発に、唾棄したくなるほどの嫌悪感を覚え、心の中で小泉前総理を応援したほどである。

古今東西、外に敵を作って国内の結束を図るという戦術は、権力者の常套手段になっている。国民の不満を外に向けるため、外圧を利用するのだ。何かと日本を槍玉に挙げる中韓や北朝鮮なども、そのくちである。

小泉前総理は、靖国参拝を利用して外圧を誘導し、それを国民の自分への熱烈な支持に結びつけた。その熱烈な国民の支持を背景に、念願の郵政民営化を実現させたのだ。

参議院の郵政法案の審議が否決されれば、衆院を解散し、
「改革なくして成長なし」
という馬鹿の一つ覚えのような題目を唱え、刺客を利用してまで郵政民営化を実現させたのだ。
郵政民営化のためなら何でも利用する彼が、靖国参拝を利用しないはずがない。

小泉前総理の靖国参拝も、歴代の総理と同じように憲法問題や外交問題の観点からのみ議論されていたが、そんな議論とはかけ離れたところに、希代の食わせ者である彼の真意が隠されていた、と見るのは、私一人ではあるまい。

もし、私の見方が、独断と偏見によるとんでもない間違いだったら----。

そのときは、

小泉さあ~ん、ごめんなさあ~い。

        

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巡査長が保管自転車を拝借

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巡査長が保管自転車を拝借 神奈川、不問の署長を処分へ   

神奈川県警港北署地域課の巡査長(36)が、同署が廃棄する予定で保管していた放置自転車を無断使用中に、神奈川署員に職務質問されていたことが12日、分かった。港北、神奈川両署長は巡査長を不問にしたが、県警監察官室は窃盗容疑での捜査を指示した。
県警は巡査長を同容疑で書類送検し、両署長を処分する方針。

監察官室によると、巡査長は10月19日、港北署が廃棄処分するまで一時保管していた放置自転車を無断で持ち出し、乗って帰宅。同月28日、横浜市神奈川区の自宅近くで、この自転車に乗っているところを神奈川署員に職務質問された。
巡査長は警察官であることを明かし「廃棄される予定の自転車を自宅に持ち帰った」と説明。神奈川署長は「廃棄物だから犯罪ではない」として立件しない方針を決めた。連絡を受けた港北署長も県警に報告しなかった。   

2006/12/12 10:31     北海道新聞
 
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神奈川署長と港北署長の対応における問題点は、次の2点。                                                                                                                                第一に、犯罪に該当しなかったのか、という点である。
放置自転車を警察が一時保管していても、従来の持主に所有権があることは、疑う余地がない。
持ち主が、所有権を放棄して自転車の廃棄を警察に委ねていたような場合なら別だが、持ち主が判明せず、廃棄処分するまでの一時保管の段階では、まだ他人の物である。他人の財物を摂取する行為は、刑法235条の窃盗罪に該当する。


神奈川署長は「廃棄物だから犯罪ではない」として立件しない方針を決めたそうだが、その放置自転車は、廃棄する予定で保管していたのであって、すでに廃棄処分されたわけではない。
身内をかばい、不祥事の発覚を恐れる、自己保身のためのずるい言葉のすり替えがある。

第二に、連絡を受けた港北署長も、県警に報告しなかったという点である。
仮に、神奈川署長のいうように「廃棄物だから犯罪ではない」として立件しないことが妥当だったとしても、警察官としてあるまじき行為であることにはかわりはない。


廃棄される自転車は、ぼろぼろで使い物にならない物ばかりではない。
持ち主が探し出せないために、やむなく廃棄処分にされるものもある。新品同様の程度のよいものであっても、面倒くさがって引き取りに来ない持ち主もいる。
それらの自転車を、廃棄予定だからといって、一警察官が勝手に私物化してよいものかどうか。

警察署に保管してある放置自転車を、廃棄予定だからといって一般の市民が勝手に持って行っても、警察は何ら問題にしないのか。
警察署長の良識を疑いたくなるような事件である。
            

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植草一秀氏の意見陳述書に思う

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12月6日に行われた第一回公判の植草一秀氏の意見陳述書を読んだ。
内容が事実だとすると、恐ろしいことである。国家権力に嵌められたことが明白だからだ。


当日、少し離れた場所で被害者と称する女性が騒いだ。かかわりを避け、そのまま目をつぶって立っていると、突然二人の男に左側とうしろ側を上半身が全く身動き出来ないような強烈な力で押さえられ、駅に着くと、そのまま駅事務室に一人だけ連れて行かれた。
その間、何度も「女性と話をさせてくれ」と言ったが無視され、
事件については何も聞かれることなく、警察署に連れて行かれたという。


何とも、不可解な話である。
私もこれまで、電車内での痴漢騒ぎには三度遭遇している。
いずれもまず、当事者間で、「触ったでしょう」「触ってない」というやり取りが何度も続く。
その後に、「しらばっくれるなら駅長室に来なさい」「おお、どこへでも行ったるわ」という会話になって駅長室へ二人で行ったというケースが二件。
「駅長室に来なさい」「何で行かないかん」という会話になって、疑われた男がそのまま女性の手を振り切るようにして、平然と立ち去ったというケースが一件である。

その間、誰も傍観するだけで、どちらの味方もしない。触ったかどうかなど、本人しかわからない。変にかかわって、自分に迷惑が及ぶのを嫌うからだろう。


植草氏の場合は、触った、触ってないという当事者の激しい会話がまずなかった。当事者の言い合いがないまま、第三者が体を取り押さえて、駅事務室へ連行している。
そして、何度も「女性と話をさせてくれ」と言ったが、二人の男は無視し、被害者と称する女性も現れなかったという。

女性が痴漢の被害にあったのであれば、まずやったと思われる本人に、いろいろ言いたいはずである。それが、電車の中で騒いだきり、忽然と姿を消してしまっている。

植草氏を二人の男が取り押さえた行為も、理解に苦しむ。
痴漢行為をいつまでもやめないため、女性が助けを求めたというわけではない。逆切れして、その女性に暴力を振るって暴れたから止めに入ったというのでもない。

騒ぎを聞きつけただけで、二人の男が手際よく取り押さえ、事情も聞かずに駅事務室へ直行するなど、現実には考えられない行動である。
そこには、あらかじめ仕組まれたという筋書きしか、見えないのだ。

誰に。
植草氏を煙たがっていた国家権力者たち以外には考えられない。

慰謝料目当ての不良グループであれば、警察に突き出す前に話し合いの場を設けて金の話をするはずである。いたずらや個人的な恨みで陥れるにしては、念が入りすぎている。
その後の警察、検察の対応からしても、国家等の組織的な犯行であることは、まず間違いあるまい。


国家権力は、自分たちに楯突く者には容赦しない。
最近では、マンションへのビラまきで住居侵入罪を適用して起訴したり、免許証の住所変更を怠っていただけで、免状不実記載で逮捕した例もある。
そして、一旦逮捕すると、無理やり自供させ、否認を続ければ、起訴していつまででも身柄を拘束する。供述調書も権力側の作文で、嘘の塊の全くデタラメなものである。

私の場合など、私の供述の信憑性を裏付ける多くの物的証拠がそろっていながら、権力側の証人二人の嘘の供述のみを信用できるとものとして、有罪に導かれたほどである。
一審の裁判官のデタラメな判決は、さすがに二審では破棄されたが、無罪にはならず、罰金に減刑されただけである。

それだけに、今回の植草氏の事件も、権力側が流すマスメディアの情報に惑わされてはならない。
権力に迎合する裁判所の判断ではなく、良識ある民の裁きに期待しなければならない事件ではないだろうか。

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植草元教授の保釈取消

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痴漢容疑で逮捕起訴された植草一秀氏の保釈が、またも検察側の抗告によって取り消された。
前回10月5日の保釈決定も、検察による準抗告によって取り消されているので、今回で2度目になる。

勾留が認められる要件は、
1. 被告人が定まった住居を有しないとき。
2. 被告人が罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由があるとき。
3. 被告人が逃亡し又は逃亡すると疑うに足りる相当な理由があるとき
のいずれかであるが、植草氏は上記のいずれの要件にも該当しない。
該当しないにもかかわらず、もっともらしい屁理屈をつけて勾留を認めてしまうのが裁判所である。

保釈を取消した理由は定かではないが、おそらく2の罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由があるということだろう。
「被告人は犯行を否認し、本件犯行に至る経緯ないし犯行状況につき、本件被害者(及び目撃者)の供述内容等と相当程度異なった供述をしている状況にあるところ、これらの立証にあたっては供述証拠に頼ることの大きい事案であることなどに鑑みれば、公訴提起がなされた現段階においても、被告人が関係者に働きかけるなどして罪証を隠滅するおそれはなお否定できず、勾留の必要性を否定すべき特段の事情もない」
と、いうような理由になっているものと思われる。

保釈には厳しい保釈条件が付けられるのだから、今の植草氏にそれを認めても何ら問題はないはずである。

罪証隠滅のおそれがあるかないかは、勾留を認める裁判官が本来一番よくわかっているはずであるが、検察が異議を述べると、ほとんどの裁判官は、罪証隠滅のおそれという漠然とした理由を持ち出して保釈を却下してしまうのである。

我が国の刑事の裁判官は、節操がない。
検察等の国家権力に、惨めなほど弱い。逮捕状も勾留状も請求されれば、ほぼ100%発行するし、保釈も検察の顔色を窺って決定している。正義も信念も全くないのだ。
法の番人どころか、国家権力に加担し、検察と一緒になって人権を侵害する官庁である。

権力と争って否認を貫きながら1ケ月弱で保釈が認められた私の場合は例外中の例外で、私の弁護士も保釈が認められた際、
「いい裁判官に当たったよ」
と、しみじみ言っていたし、例のない早期の保釈に、名古屋地裁では有名になっていたほどである。
それほど裁判所は、当てにならないのだ。

植草氏の保釈も、この分では証拠調べが終わるまで認められない可能性が高い。長く勾留されれば、裁判の進行上も、被告人に不利となる。
それを狙っていることが見え見えなところに、本事件の真相を見る思いがする。

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石原都知事の3選出馬を斬る

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東京都の石原慎太郎知事が7日、来春の都知事選に3選を目指して出馬することを正式に表明した。

国会議員や知事というものは、一度やると、自分ではなかなか辞やめられないものらしい。

石原知事に関しては、
5日にも、東京都が2004年1月、スイス・ダボスで主催したパーティーの太鼓演奏に、石原慎太郎知事の四男が舞台背景の絵の制作者としてかかわり、旅費などが公費から支出されていたことが報道されたばかりである。
この支出額は、事前調査を含む2度の出張費と制作費の合計で約175万円にのぼり、これらは太鼓演奏家への業務委託費に上乗せする形になっていたという。


先月も、石原知事は海外出張の際、都条例の規定を大幅に超過する高級ホテルやク ルーザーに宿泊し、衆院議員時代からの秘書も、飛行機は知事と同じファーストクラスに格上げし ていたことが共産党都議団の調査で判明している。
石原都知事の規定額は総理大臣と同額だが、それを超えていた。


石原都知事はこれまでに計19回の海外出張をしており、記録が残っている過去5年の15回分で、同行職員分も合わせて出張費の総額は約2億4350万円に及んでいる。
都知事の宿泊費や交通費、日当は都条例で総理や最高裁長官と同額に定められており、例えばロンドンやワシントンなど大 都市では1泊4万200円だが、詳細な記録のある6回の出張では、石原知事の宿泊費は26万3000円~13万1500円で、規定の3.3~1.6倍だったそうだ。

はあ。

ため息が出る。

都知事選の3選出馬表明で、石原知事は、この8年間で手がけた財政再建などの実績を示していたが、贅沢な海外主張や子供に175万円も公費で使っておきながら財政再建の実績を強調できるとは、たいした人物である。

石原知事について、すべてを否定するわけではない。
彼のこれまでの言動、実績には、確かに評価できる面も多かった。
だが、政治家は、昔の名前で出てくるようになってはお終いである。過去はあくまで過去であり、現在および未来をどうするかということが、政治家に課せられた一番の使命であろう。

どんなものにでも、耐用年数というものがあり、それは、人間も同様である。石原慎太郎知事だけ例外というものでもない。
最近の言動を見ていると、彼は政治家として確実に耐用年数が経過している。
すでに、ポンコツになっているのだ。

贅沢な海外出張や、身内への公費支出についての追及に、
「知らないよ、事務局で聞いてくれ」
「事務方に任せている。たまたまリゾートで高くついた」
「手続き的に問題も違法も
ない、いかにも共産党らしい貧しい発想だ」
などと言っていたが、これこそ、年を取って頭の固くなった頑固な老人の、貧しい発想による意見以外の何ものでもない。

最高責任者だから、行政面で何か問題があがれば、自分が責任を持って調査し、対処すべきであり、手続き的に問題や違法がなければ、何をやってもいいというものでもない。

息子が立派な芸術家で、余人をもって替え難かったから使ったというのであれば、旅費などを公費から支出すべきではない。
「お前も40の大人なのだから、旅費や制作費ぐらい自腹を切れ」
「自腹が切れないほど貧しいのなら、俺が自腹を切ってやる」
というのが、けじめのある政治家の言うことであり、子供に対する本当の愛情表現であり、気遣いではないのか。
それがわからなくなったところに、耐用年数を経過した、身内びいきのただのポンコツ老人に成り下がった証がある。

市議会の議決を経て手続き的に全く問題がなくても、市が借り上げた料亭の女将が市長の愛人だったということで、背任罪で逮捕起訴され、実刑判決を受けている前和歌山市長の例もある。

あんまり調子に乗っていると、検察が動かないとも限らない。
地味なエリート集団である彼らは、政治家と違って、こんなことでしか優越感を味わえないのだから、なめていると痛い目にあうだろう。

自分で引き際を考えないと、福島、和歌山、宮崎に次ぐ知事の逮捕となり、最後はぼろぼろになって、過去の実績さえ評価されなくなってしまうということを、かみしめるべきだろう。

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ホリエモンを斬る

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ライブドア事件で証券取引法違反罪に問われている前社長堀江貴文被告が3日、テレビ朝日系「サンデープロジェクト」に生出演していた。

元取締役の宮内亮治被告について、次のように語っていた。
「彼の年収は二千数百万円で、僕が3000万円ぐらい。彼は扶養家族も多いし、愛人もいるし…ヘヘヘ。家も2つあるし結構、お金かかってるんだろうなと。僕より年収が低いのに、何であんな金回りがいいんだろうと思っていた」
「いいベンツに乗って、いい服も着てる。僕はスーパーで買ってきたような服を着てますけど。(私的流用は)これ以外にもあるんだもん。腹が立つというより、僕はかわいそうだと思った。そこまでして金が必要かなと」

うーむ。
これが仮にも、飛ぶ鳥を落とす勢いで多くの社員のトップに立っていたライブドアの社長の姿かと、あきれ返る。
逮捕後、かっての側近たちが皆一様に敵に回ったのも、頷けるというものである。
堀江被告にしてみれば、敵に回った側近たちが悪いのであって、自分は悪くないとでも思っているのだろう。

容疑を認めたことに対する批判だけなら許されるが、部下にあたる者の私生活まで暴露して非難するようではお終いである。それも、テレビというマスメディアを通じて行っているのだから、馬鹿につける薬がない、と言うべきだろう。

文句があったら、直接本人に言うべきである。
文句や悪口は、人やマスメディアを介して言うものではない。言っている自分が軽く見られるし、しこりが残る。名誉毀損で訴えられるおそれもある。

どんな事情があるにせよ、容疑をかけられて社員まで逮捕されるような事態を招いたのであれば、社長の不徳のいたすところであり、こと社員に対しては、謝罪して責任を負うのが社長の当然の責務である。

それを、周知になっていないプライバシーまでテレビで暴露して非難するとは、頭の構造が狂っているとしか言いようがない。
頭がいいと、いっとき世間は持ち上げていたが、こういう人間が本当の馬鹿である。利口な人間のすることではない。

宮内被告のことを、
「彼は部下ではなく、対等の関係にあった。彼もぼくのことを社長とは思ってなかった」
などと言っていたが、それが何の関係があるのだ。

だいたい、若者といっても、すでに34歳である。社長としての自覚もさることながら、大人としての自覚も全く出来上がっていない。
資産価値だけ成長させて、自分自身の人間性の成長をなおざりにしてきたからだろう。

ソニー買収の計画について、
「(買収)できる可能性はあった。ソニーを買収して世界一になって、その時点で(実業家を)辞めようと思っていた」
とも言っていたが、この言葉は、彼にとっては世界一の基準も、しょせん、金を尺度とする事業規模だけに着目していただけだということを、物語っている。

「腹が立つというより、僕はかわいそうだと思った。そこまでして金が必要かなと」
宮内被告について語った言葉を、そのまま堀江被告に返してあげなければならない。

時代の寵児といわれた男でさえこの程度だから、つくづくこの国には、人物がいないものだと、嘆かわしくなってくる。

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痴漢容疑で逮捕の高3「無罪」

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まずは昨日のニュースから。
 
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痴漢容疑で逮捕の高3「無罪」 東京家裁支部が不処分
2006年12月04日

電車内で痴漢をしたとして現行犯逮捕された東京都町田市の高校3年の少年(18)に対し、東京家裁八王子支部が「少年が痴漢をしたと認定できない」として、無罪に当たる不処分の決定をしていたことが分かった。久保田優奈裁判官は「供述調書は内容が一貫しておらず、捜査当局がでっち上げた可能性がある」と指摘した。

少年は、5月29日午前8時ごろ、学校に向かう電車内で突然、「この人、痴漢です」と、振り向いた女性(19)に指さされたという。
少年は警視庁成城署で、「認めなければ10日間、勾留(こうりゅう)され、学校には行けない」と言われたという。「10日も学校を休めば、痴漢で逮捕されたことも明らかになり、卒業できない。認めれば、釈放され、裁判所で処分を受けても学校には分からないだろう」。言われるまま、供述調書の作成に応じた。
父親は中学1年の時に病死しており、卒業して就職し、家計を助けたかった。一晩、留置所で拘束され、翌日、釈放された。母親(38)に「ドラマで見た取り調べと同じだった。悔しいけど退学になるよりマシだ」と伝えた。

審判で無実を主張した少年に対し、11月24日、東京家裁八王子支部は不処分の決定をした。
検察官の調書には、「被害者の女性が少年の手をつかんで『この人、痴漢です』と突き出した」とあったが、警察での少年の調書も被害者の調書も「少年を指さした」だった。また、両手で触ったとする調書と「手提げカバンを持っており、両手で交互に触った」とする調書が混在していた。

久保田裁判官は「調書は事実を記載したものではなく、捜査側が考案した内容である可能性が払拭(ふっしょく)できず、信用できない」と指摘。少年の供述の変遷についても、「卒業できないと言われて認めたが、その後、無罪を主張したという経緯は合理的で信用できる」として少年を不処分とした。

成城署の仲村鶴美副署長は「裁判所の決定文をまだ見ていないのでコメントは控えたい。適正に捜査したと考えている」と話した。

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この事件は、警察や検察が、日頃いかに人権を尊重していないかということを物語る事件である。

身柄を拘束された人間にとって、長期間の勾留と、仕事や学業への影響による社会的な抹殺を匂わされることは、肉体的な拷問と同じように応えるものである。
警察や検察は
、被疑者がほんとうに事件にかかわったかどうかより、目の前にいる被疑者をいかに落とすかということにのみ心血が注がれている。

警察での調書が、少年も被害者も「少年を指さした」となっていたのであれば、なぜ、検察官の調書に「被害者の女性が少年の手をつかんで『この人、痴漢です』と突き出した」と記載されるのか、理解に苦しむ。

所詮、検察官の調書は警察の調書の上塗りであるから、取調べの段階で、検察官は警察の調書をよく読んで内容を検討しているはずである。この段階で被害者の供述が警察での調書と違っていれば、少年の犯行を疑い、釈放すべきであって、そもそも審判に付すべきではないのである。
取調べの現場では、被疑者を人間と見ず、物としてしか見ていない証拠であろう。

供述内容の異なる警察と検察の調書を、わざわざ裁判所の審判に証拠として提出する検察官の愚かさにもあきれ返るが、成城署の仲村鶴美副署長の頭の悪いコメントにもあきれ果てる。
「裁判所の決定文をまだ見ていないのでコメントは控えたい」
というのであれば、
「適正に捜査したと考えている」
などと 、余計なことを言うなと言いたい。
コメントするのであれば、
「裁判所の決定文をまだ見ていないが、適正に捜査したかどうか慎重に調査して、しかるべく対応を厳粛に考えたい」
と言うべきだろう。


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控訴審裁判:その5(上告)

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控訴審判決の後、弁護士会の控え室で打合せを行った。
判決終了直後は、3人の弁護人全員が一様に厳しい表情だったが、打合せのときは、表情がかなり緩んでいた。
私だけが、険しい表情をしていたのかもしれない。

一審判決が破棄され、罰金50万円に減刑されたことで、被告弁護側とすれば、大きな前進である。
一審の伊藤新一郎裁判官のデタラメな判決が破棄され、事実認定においては被告人側の主張が全面的に認められたのだ。

ただ、国税、検察、警察という鉄のトライアングルは非常に強固であり、この強固なトライアングルは、裁判所も無視できなかったようだ。
また、一審で有罪が下されている以上、高等裁判所としても、それがデタラメな判決とはいえ、その身内の判決結果も無視できなかったのだろう。

判決理由には、一審判決を批判し、かなり被告人側に配慮した文言が見られたが、同時に検察官の訴因の変更を認めたうえ、被告人の故意も認めて、結果的に一審判決と結論的には同一部類に属する有罪判決を下すところに、保身を図る裁判官のずるさがあった。

刑事の裁判官は、無罪判決を出すことを極度に嫌うので、立証上、有罪判決が出せないようなときには、検察官を個別に呼んで相談することが多いという。
今回の控訴審の進行状況を見てみると、あくまで推測だが、このままでは有罪判決が出せないと見て、裁判官が検察官に訴因の変更を慫慂(しょうよう)した疑いが強い。


一審において起訴された事実で2年近くも争ってきて有罪になったのだ。一審の証拠では控訴審で有罪が維持できないとなれば、無罪判決を出すか、一審判決を破棄して差し戻すべきではないか。
一審で有罪に導いた起訴事実を、控訴審で勝手に変更して有罪判決を下すようなやり方は違法である。
そのような訴因の変更は、まだ最高裁の判例はないものの、下級審では違法とする判例がある。

国税、検察、警察という強固な鉄のトライアングルに加えて、統計上、無罪率が0.1~0.2%という厳しい現実が立ちはだかるが、可能性がゼロではない以上、諦めるわけにはいかない。
最後の最後まで闘い抜く決意を込め、その打合せの場で、私は迷うことなく上告の手続きをした。

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控訴審裁判:その4(資格停止)

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控訴審における罰金刑の判決は、私の一身上にも影響がある。

一審判決は、懲役6ケ月、執行猶予3年であった。
これは、私のような国家資格者にとっては、職業上、致命的な痛手となる。
法律上、不動産鑑定士は、刑事事件で禁固以上の刑に処せられた場合、執行猶予期間中は、業務を行ってはならないことになっているからである。

不動産鑑定士といっても信用商売である以上、3年間も業務が停止されれば、事実上廃業したに等しくなる。

当初、罰金刑の規定のなかった公務執行妨害罪での本裁判では、裁判官に罰金刑で逃げられる心配がなかった代わりに、無罪以外は許されないという大きな重圧が弁護団に重くのしかかっていた。それは、こうした事情があったからだ。

今回の罰金刑への減刑は、そういった職業面での不利益を払拭することには役立ったわけである。

だが。
私は、逮捕されたとき、不動産鑑定士の道に入って、すでに20余年経過していた。
仕事では誰と比べても決して劣るとは思わなかったが、かといってこの業界で自分が必要不可欠かといえば、そうでもない。自分の代わりなど、いくらでもいる。
役人にぺこぺこして頭の上がらない業界の人間に幻滅していたし、保守的で閉鎖的な考えしかできない同業者の多いことにも嫌気をさしていた。
ひとつのことを長くやればよいというものでもなく、長すぎればマンネリ化して堕落していくのが、人間の常である。よくぞ、20年以上も続けてこれたものだと、自嘲していた頃でもあった。
定年のない世界であるが、定年がないからこそ、逆に自ら引き際を考えなければならない。
短い人生である。自分は、何のために生まれてきたのか。
地位や資格や既得権益にしがみつくために生まれてきたわけではない。自分がやらなければならないことは、何かほかにあるのではないか。
そんな思いにとらわれていた時期でもあった。

0弁護士から、有罪になると資格が停止されるという指摘を受けたときも、
「資格停止のことは全然気にしていませんから」
と答えたが、これは、表向きの強がりでも、弁護団に必要以上のプレッシャーをかけまいとする配慮でもなく、当時の心境から正直な胸のうちを語っただけである。

有罪になって資格が停止されれば、それを機会に新しい人生が開けるかもしれない。
そんな思いでいただけに、資格停止を払拭する今回の罰金刑の判決には、複雑な感慨がある。


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