判決に明白な誤謬

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裁判所から更正決定の文書が来た。
平成19年1月31日にあった民事訴訟の控訴審判決の訂正である。

本判決は、一審で勝訴したのを逆転させた判決である。
税務調査に来た竹山孝財務事務官(特別国税調査官)らの供述の信用性につき、物証により否定した刑事の控訴審判決に従ってほとんど否定し、つぼを割った行為自体にも同財務事務官の過失を認めた。
しかし、ただ一点、物証による裏付けがとれないことをいいことに、私が向かって行ったのを避けるために割ってしまったという竹山財務事務官のウソの供述を根拠に、正当防衛を認めてしまった不当な判決である。

但し、判決の誤りの訂正は、判決及び判決理由ではなく、判決言渡日の訂正である。

                   更 正 決 定

控訴人兼附帯被控訴人  国
被控訴人兼附帯控訴人  ○○○○

上記当事者間の当庁平成18年(ネ)第690号、同第750号損害賠償請求控訴、同附帯被控訴事件について、平成19年1月31日に当裁判所がなした判決に明白な誤謬があるから、職権により、次のとおり決定する。
                    主    文
冒頭に「平成18年1月31日判決言渡」とあるのを「平成19年1月31日判決言渡」と更正する。
   平成19年2月19日
    名古屋高等裁判所民事第3部

       裁判長裁判官  青 山 邦 夫

           裁判官  坪 井 宜 幸

           裁判官  田 邉 浩 典

    これは正本である。
       同日同庁
            裁判所書記官 加 藤 雅 人


Burogu_006_1
「明白な誤謬があるから、職権により、次のとおり決定する」だと。
笑わせるな!
間違えてすみません、ではないのか!

更正の日付が、平成19年2月19日になっているが、この日は、私が当ブログ
http://hanbei.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/__7dbe.html
<契約書作らず映画制作  裁判員制度PRで最高裁>で、判決言渡日の間違いを指摘した日である。

お粗末な間違いを指摘され、この日に合わせて訂正してきた慌てようが目に浮かぶ。
間違いの訂正も、「
誤謬・職権により・更正する」と、いかめしい表現で威厳を保とうとするところは、立派というより滑稽である

勝負はまだついちゃいねえぜ!
威厳を保とうとする気持ちがあるのなら、公平で正しい判断に基づいた判決で威厳を示せ!!

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でっち上げ捜査は裁判所にも責任

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昨日取り上げた鹿児島県議選をめぐる公選法違反の志布志事件。
いろいろな新聞を読めば読むほど、でっち上げ捜査のひどい実態が浮き彫りになってくる。

なかでも、勾留日数395日という求刑(懲役1年10月)の6割にあたる長期間身柄を拘束されながら否認を続けた元県議の中山信一被告の言葉は、胸にしみる。捜査関係者の汚いやり方に、思わず、はらわたが煮えくり返るほどの憤りを覚えた。


「一度だけ、信念が揺らぎそうになったことがある。2回目の逮捕のときだった。私が認めんもんだから、刑事に『奥さんが認めている。あんたのようなうそつきとは離婚すると言っている。あんたが1回でも認めれば、奥さんはすぐに出せる(保釈できる)』と告げられました」
同じく逮捕された妻のシゲ子さんとは、地元でも“おしどり夫婦”で知られていた。
刑事に言われたことを、接見の弁護士に尋ねた。
「本当ですか」
「いや、奥さんは(否認で)頑張ってるよ」
「(夫が)認めるならば離婚すると伝えて」
と言った妻の言葉が、ねじ曲げられていたのである。

脅しや不当な勾留による嫌がらせだけではなく、ウソをついて人間のもっとも弱いところを攻め、人の心をずたずたにするようなやり方をする人間は、けだもの以下である。

だが、こうした非人間的な取調べは、今回の事件や、先ごろ発覚した富山の服役男性の強姦冤罪事件だけに限ったことではない。これらは、無罪判決や真犯人の判明によって、たまたま明らかになったに過ぎない。
取調べの現場では、いわば日常的に行われているのである。

身に覚えのない容疑で取調べを受けた者なら、誰でも経験していることだ。
取調べを受けた経験のない者はむろんわからないが、取調べを受けても、被疑事実を最初から素直に認めて捜査当局に協力してきたたような被疑者たちでは、そのような激しい不当な取調べの実態を知らないかもしれない。

非人間的な取調べは、被疑事実を否認している場合に行われる。
つまり、本来なら逮捕すること自体が違法な無実の罪で捕らえられた者ほど、言葉では言い表せれないほどの非人間的な取調べを受けるという矛盾した現実が存在するのだ。

このような違法なでっち上げ捜査が日常的に行われているのは、警察や検察の体質に問題があることはもちろんであるが、その責任は彼ら捜査当局の者だけでなく、裁判所にも大きな責任があるといわなければならない。

冤罪の土壌になっている自白偏重捜査が日常的に行われるのは、それを求める者がいるからである。警察や検察が自白偏重捜査を行っても、裁判所が推定無罪の原則を貫いて自白に重きを置かなければ、そのような捜査をする意味がなくなる。
警察や検察が逮捕状を請求すれば、ほぼ100%発令する。勾留や保釈請求の諾否も警察や検察のほぼ言いなりである。裁判では、物証より自白を重視する。
これらは、裁判所が推定無罪の原則を守っていない証拠であり、このような裁判所の姿勢が捜査当局に自白偏重捜査を行わしめていると言っても過言ではない。

今回の無罪判決も、捜査があまりにもひどすぎたための結果であり、被告人の勾留日数等を勘案すると、裁判所をそのまま評価してよいか疑問である。

被告人の汚名は晴れても、心の傷は容易に消えない。過ぎ去った時間も、二度と戻らない。

裁判所の評価は、このような悲惨なことが起こらなくなったときで十分だ。

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電子申告は誰のためか

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確定申告シーズンである。
2006年分の所得税の確定申告の受け付けが16日から始まっている。

国税庁は、混雑が予想されることを理由に、インターネットで申告できる「国税電子申告・納税システム(e-Tax)」の利用を呼び掛けている。
東京国税局では、確定申告のキャンペーンキャラクターを務めるタレントが、パソコンを使って模擬体験し「意外と簡単。皆さんにも使ってもらいたい」とPRするなど、普及に努めているが、その利用率は、05年分所得税申告では0・2%未満にとどまっているという。


システム導入に多額の予算をつぎ込んでこの程度の利用率では、税金の無駄遣いというそしりは免れまい。

なぜ、電子申告の利用率が低いのか。
それは、納税者にとってメリットがほとんどないからである。
メリットがないだけならまだしも、デメリットが多すぎる。

まず、電子申告を利用率するのに、住民票のある市区町村の窓口で住民基本台帳カード(ICカード)を入手し、申請書を提出して電子証明書の発行を受けなければならない。
住基カードと電子証明書の発行に要する手数料が1000円程度必要で、それを取得するまで30分から1時間程度の時間を要する。

更に、所轄の税務署へ行って電子申告・納税開始届出書を提出しなければならない。この届出は、インターネットのホームページからでもできるが、余計な手間ひまがかかることだけは確かである。

それだけではない。
自宅などからパソコンで電子申告する場合は、住基カードを読み取るカードリーダーを別に買わなければならない。代金は4~5千円。この費用も、馬鹿にならない。

電子申告を利用すれば申告期間中は土日を含め24時間申告書の提出が可能であり、税務署にわざわざ行かなくてもよいから、大変便利だと強調しているが、もともと申告書の提出など郵送でもできるのだから、利便性など全くといっていいほど変わらない。

年に一回の確定申告のために、煩わしい手続きを行い、時間や費用を費やして、慣れない新しい制度を、わざわざ利用する者がいるだろうか。
電子申告の利用率が低いゆえんである。

税金の無駄遣いの典型のようなこのような制度を国税庁が導入したのは、むろん納税者のメリットを考えてのことではない。国税庁自身のメリットを考えてのことである。

国税庁などというものは、役所の中でも、一番信用できない組織ではないかと私などは思っている。

税務調査においては、非民主的なことが平然と行われているし、PRやパンフレットには知識の乏しい国民を欺くようなウソも多い。
第三者の立会いや調査内容の録音などを、税務職員は守秘義務に抵触することを理由に拒否しているが、厳密にはこれらは守秘義務違反に該当するものではなく、税務職員の違法な調査のやり方が外部に漏れることを防ぐための方策として利用されているのである。

私の税務調査の場合にも、カセットテープ等による録音は所得税法違反であり、判例もあるなどと担当の調査官が言っていた。調査官が口で言うだけでなく、国税局はそれを記載したパンフレットまで作っていたが、後で調べてみると、そのような判例はなく、ウソであることが判明した。

税務調査の際、調査内容の会話の録音を求めた納税者に対し、税務職員が守秘義務違反を理由に録音行為を許可しなかったことは違法とまではいえないという判例を意図的に曲解し、録音行為は判例で禁止されていると組織ぐるみでウソをついていたのである。

そういった体質の組織だから、電子申告は便利だから利用しましょうなどと宣伝されても、信用しないほうがいい。

実は、この電子申告制度は、税務調査の利便性のみに主眼をおいて導入されたきらいが強い。
申告書に財務諸表データーを添付させ、将来的に、そのデーターベースをもとに税務申告の決算書と、それとリンクした総勘定元帳のデーターにより、課税庁はいつでもインターネット上で、納税者の会計取引を随意にチェックできるようになる。

課税庁とっては、税務調査の理由開示や事前通知の義務等の質問検査権に関する法律上の問題が解消され、納税者の協力いかんに関係なく、税務調査や半面調査が遂行できるようになる。納税者の権利を犠牲にして、税務調査の効率化が図られるというわけだ。

国民の要請によってではなく、国の一存で導入された制度は、いかなる名目であっても、国に利益をもたらすだけで、国民にとってほとんどメリツトはないとみてまず間違いない。
制度導入の名目が美しい言葉で飾られるほど、われわれ国民は警戒心を強めねばならないのだ。

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刑事裁判の有罪率99.9%:その2

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有罪率99%以上という現実について、元検氏の考えは、有罪率を下げれば不当起訴が増えることになり、重大な人権侵害の増加をきたすことになるから、賛成できない、という趣旨のようである。
果たして、そうか。
以下、具体的に検討してみる。

①無罪率の増加と人権侵害 
「検察としては100%の自信がない事件でも、きちんと裁判所の判断を仰ぐという起訴のあり方もあっていいのではないかと考えることもあります。しかしそうすると、無罪率が増えます。無罪率が増えると言うことは、結果として無実の人が身柄を拘束され起訴されることが増えるということです。言い換えれば、結果的に不当起訴が増えるということです」
これは、そのとおりだと思う。

②有罪率の低下と人権侵害の増加
「検察が一方的に証拠判断のレベルを下げて有罪率を下げようとしても、マスコミは逮捕時点で犯人逮捕と報道し(実際はまだ被疑者)、起訴時点で有罪扱いです。簡単に有罪率を下げるわけにはいきません。重大な人権侵害の増加をきたすからです」
マスコミが逮捕時点で犯人逮捕と報道することが、人権侵害につながるのであれば、安易に逮捕状を取り、不当逮捕することが問題であって、起訴の件数は関係ない。この場合は、有罪率を下げることが重大な人権侵害の増加をきたすということにはならないのである。

「簡単に有罪率を下げるわけにはいきません。重大な人権侵害の増加をきたすからです」
有罪率を下げると、重大な人権侵害の増加をきたすという意味は、よくわからない。

まず、人権侵害は被疑者や被告人だけの問題ではないことに留意しなければならない。ほとんどの事件は、加害者もいれば、被害者もいる。人権云々という以上、両者の人権を考えなければならない。

100%の自信がない事件でも、検察はきちんと起訴して裁判所の判断を仰ぐということになれば、確かに、起訴件数が増えることにより、不当起訴も増えることになるかもしれない。
しかし、不当起訴は増えるかもしれないが、有罪件数も増えるのである。本来有罪であっても処罰されなかった事件が、公平な裁判により、有罪として処罰される件数は確実に増えることになる。

たとえば、有罪になる確率が70%以上のものだけを起訴する場合、それが70%未満の事件は、処罰さえされないことになる。そうすると、70%未満の事件の被害者は泣き寝入りするしかない。

刑事事件で不起訴にされたような事件は、被害者が民事訴訟で救済を求めようにも、証拠の収集面でまず不利になる。勝訴の確率は低いし、仮に勝訴しても、罪を犯すような者からは、現実問題として賠償が得られる可能性は極めて低い。
不当な勾留による被疑者(被告人)への賠償規定はあるが、不起訴による被害者への賠償規定はない。
現状の有罪率の高さは、被害者の人権を侵害しているという歴然たる事実がある。このことを、まず見落としてはならない

次に、被疑者の人権侵害であるが、これも、疑問である。
起訴件数を増加させることによる有罪率の低下によって、被疑者の人権侵害が必ずしも増加するといえるだろうか。

不起訴処分も、実際は、ほとんどが有罪扱いの起訴猶予であって、無罪相当の嫌疑なしや嫌疑不十分ではない。
裁判での無罪であれば、法定の賠償を受けられるが、起訴猶予では、何の補償も受けられない。これでは、起訴しなかったからといって、人権に配慮した処置を行ったとはいえない。
密室での検察の段階で、処分を決定するのではなく、公開の公平な裁判で客観的な判断を下すほうが、被疑者(被告人)の人権に、より配慮したやり方といえるのではないだろうか。

③人権を考慮して起訴不起訴を決定?
「検察が一方的に証拠判断のレベルを下げて有罪率を下げようとしても、マスコミは逮捕時点で犯人逮捕と報道し(実際はまだ被疑者)、起訴時点で有罪扱いです。簡単に有罪率を下げるわけにはいきません。重大な人権侵害の増加をきたすからです」
これは、検察はいかにも、マスコミ等による人権侵害を考慮して、起訴不起訴を決定しているかのような表現だが、とんでもない話である。

検察が起訴不起訴を吟味するのは、人権侵害の考慮云々からではない。
まず、送検された事件をすべて起訴しないのは、法廷検事の人員上、対応できないという事情があるからである。人員に限りがある以上、起訴する案件を、対応できる件数に絞らなければならない。これが、一番の理由である。

有罪の確率が高くても、寝食を惜しみ、すべての休日を返上してまで起訴して働くような検事などいない。
従って、人員の関係上、対応できる範囲に絞って起訴しているが、その際の判断基準は、有罪の獲得に関して100%の自信があるかどうかではなく、検察組織の独自の基準で起訴不起訴を決定しているのである。

たとえば、本人も犯行を認め、証拠も揃って、有罪の獲得が100%自信のある事件でも、万引きや酒によっての公務執行妨害などの事件では、不起訴の案件が非常に多い。これは、有罪の獲得率という判断基準ではなく、事件の軽重に重きを置いている証拠である。微罪で本人が反省していれば、検察から見れば、起訴するまでもない軽い事件という判断になり、その結果、不起訴になっているのである。

一方、国策事件や、検察組織に反抗する事件では、有罪の確率が低くても、不起訴にはしない。無実を主張しているライブドアの堀江被告や村上ファンド、耐震偽装の木村建設の篠塚氏の事件などを見れば、明瞭である。

犯行を自白して反省している万引き等の事件よりはるかに有罪になる確率が低いのだが、こういった国策がらみの事件では、まず不起訴にはしないのである。それは、この手の国策事件は、検察内部の基準では、許しがたい重い事件と捉えているからである。
このことからも、検察が起訴不起訴を決定する判断基準は、不当起訴が増えて人権侵害の増加をきたすことを心配しているからではないことがよくわかると思う。

④検察による被疑者(被告人)への人権侵害
「実務上、10人の罪人を逃しても、1人の無辜〔無実の人〕を処罰することなかれという理念は失われていません」
「しかし、現状はマスコミは(そして世間も)逮捕有罪推定主義、起訴有罪確信主義とも言える状況です。逮捕されただけで職場は首になる。子供は学校で苛められる。奥さんは村八分状態。という事態が普通に起こるのです」
「dankogai氏は、被疑者の人権というものに無神経すぎると思われます」
と、元検氏は述べており、検察は被疑者の人権を最大限尊重しているが、世間やマスコミが人権を軽視しているような言い方をしている。

しかし、現実は、被疑者の人権を一番軽視しているのは、検察だろう。
「実務上、10人の罪人を逃しても、1人の無辜〔無実の人〕を処罰することなかれという理念」が失われていないのであれば、自白を強要したり、否認する者に対して長期勾留を続けたりはしないはずである。
検察の求める求刑の方が、裁判官の量刑より必ず重い(稀に同じという例外はある)という事実も、被疑者(被告人)の人権をあまり尊重していない証拠である。


⑤有罪率を下げる(無罪率を上げる)方法
元検氏は、有罪率を下げるという意味は、起訴する時点の証拠判断レベルを緩め、起訴件数を増やすことであるように主張している。
つまり、現在の99%以上の有罪率は、検察が起訴不起訴にあたっての証拠判断を厳格にして選別しているからであり、有罪率を下げると、不当起訴が増加して逆に人権侵害が起こるという理由で、現在の有罪率を評価している観がある。

しかし、99%以上の有罪率は、そういった起訴における選別基準よりも、自白を激しく迫る警察や検察の厳しい取調べ方法に原因があり、裁判所の実態に問題があるのではないか。

言いたくないことは言わなくてもよいというのは、憲法で認められた権利である。憲法で認められた権利である以上、警察や検察が自白を強要すること自体、本来許されない行為である。許されない行為ではあるが、現実には自白を強要している。

しかも、否認すれば、長期にわたって勾留するし、保釈を認めないのも、大体が検察である。否認する被疑者(被告人)に対して裁判所が保釈を決定しても、検察官が抗告して異議を述べる。公平な立場で裁判所が判断した保釈決定に対して、なぜ、検察が抗告するのか。

起訴不起訴の段階で人権侵害を心配するという検察が、取調べや保釈のときは人権侵害を考慮しないのか。
被疑者(被告人)の人権を考えるなら、起訴案件を絞ることより、被疑者(被告人)の自由意志を尊重しなければなるまい。

自白するかどうかは被疑者(被告人)の自由意志に任せ、自白以外の証拠は、検察側、被告人側双方のものをすべて採用して客観的に判断するようにするだけで、有罪率はかなり下がる(無罪率は上げる)はずである。

⑥99.9%の意味と責任
「最近、別のブログで有罪率99%以上というのは異常だという意見を目にしましたが、有罪率が下がるということはどういうことなのか理解した上での意見であったのか疑問があります」
「検事が起訴したからといって有罪だと思っちゃだめですよ。人間は間違いを犯す動物ですから。裁判所は検事の起訴をチェックするためにあります。そういう意識の希薄な裁判官も現実にいるようなので困るのです。有罪率99.9%のうちの0.何%か数%かわかりませんが、そのような裁判官によって増えている数字がないとは絶対に言えません」
と、元検氏は99.9%という有罪率の責任が、あたかも一部の裁判官にあるように述べているが、非常に偏った考えである。

99.9%という数字は、世間の感覚では100%と同じである。
ある確率が、99.9%の場合、0.1%にかける者はまずいないだろう。
裁判官とて同じである。有罪率が99.9%という現実の前では、裁判官の質を云々してみてもはじまらない。最初から、公平な裁判など期待できないのだ。
ここはやはり、99.9%という数字が問題だといわなければならない。
現実の有罪率が50%の場合と、99.9%の場合とで、同じ判断をせよというのが、どだい無理な注文である。

有罪率が増えたのは、一部の裁判官の責任ではなく、保守的、官僚的な考えの強い大多数の裁判官の責任である。
強力な権力を背景にして非人間的な取調べで自白を強要し、偏った証拠で臨む警察・検察の責任である。
被疑者、被害者、捜査機関の三者に公平に取材して報道するのではなく、捜査機関からだけの情報をそのまま報道する偏ったマスコミの責任である。
そして、権力の垂れ流すマスコミの偏った報道を、そのまま信じて、被疑者をすぐに有罪扱いする無知な国民の責任である。

⑦現実の直視
以上述べたように、有罪率が下がると人権侵害になるなどという検察の広報のようなたわごとを真に受けるのではなく、検察や裁判所の現実の実態を直視して、有罪率の問題を検討しなければならない。

ワンマン社長やワンマン知事は、チェック機能が希薄になるだけに、堕落していく。どんなに優秀な者でも、チェック機能が働かなければ、腐敗していくのが世の常である。

最近、教師の質の低下から、教員免許更新制度を導入する動きが出てきたが、検察官にも、同様の制度を設けるべきである。
政治家は数年ごとに選挙の洗礼を受け、裁判官は上訴という制度により多少のチェック機能が働いている。

しかし、こと検察官に関しては、そのようなチェック機能は全くといっていいほど働いていない。当然、驕り、非人間的な行動に出ても不思議ではない。
強大な権力を持った検察だからこそ、より厳格なたがをはめねばなるまい。


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刑事裁判の有罪率99.9%:その1

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現在上映中の注目映画、『それでもボクはやってない』の周防正行監督のインタビューが公開されている。
監督がなぜ刑事裁判をテーマにしたこの映画を作ろうと思ったのか?
以下。


ありのままの現実を伝えたい!「使命感」で初めて撮った映画

「東京地裁で痴漢事件の被告人として有罪判決を受けた矢田部孝司さんが、2002年に東京高裁で逆転無罪を勝ち取ったという記事を新聞で読んだのがきっかけです。
その記事のなかで、刑事裁判の有罪率が99.9%とか、無罪を勝ち取るためには、被告人が無実の証明をしなきゃいけないということも書かれていて、なにかしら心に引っかかったのですが、そのときは単純に感動的な話だと思い、関心を持ちました。

でも、実際にご本人に会って話を聞いたり、いろいろと調べていくうちに刑事裁判そのものについての疑問が湧いてきたんです。知れば知るほど、日本の裁判制度に憤りを感じました。
というのも、『疑わしきは罰せず』という原則のもとに裁判は行われていると思ったのに、その考えが見事に裏切られてしまったから。『無実であっても、無罪になるとは限らない』という不条理に対する悔しさや憤り、そして日本の刑事裁判の問題点をなんとしても多くの人に知ってもらいたいと思ったんです。
それから、取材で出会った弁護士さんに紹介してもらって、無罪を争う裁判を20件、3年半で200回くらい傍聴しました。

この映画は、私が初めて『使命感』を感じて作った映画です。まるで高校生のような青臭い正義感で、社会に訴えたいと思ったんですよね。
今回の作品は痴漢事件を取り上げていますが、この問題は男性だけに限ったことではありません。女性は痴漢の被害者の立場として、また、自分の大切な人が痴漢の犯罪者として訴えられるかもしれない立場として……という2つの視点で映画を観ることができるんです。冤罪事件は決して他人事じゃありません」

上記周防監督のインタビューで、刑事裁判の有罪率が99.9%という数字が出ている。

「有罪率99%」は謎か異常か?というタイトルで元検弁護士氏が意見を述べておられたので、それについて私も私見を述べたい。

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三井元大阪高検公安部長の判決と検察の責任

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検察の調査活動費の流用疑惑を告発した元大阪高検公安部長三井環氏の控訴審判決が15日、大阪高裁であった。
公費流用疑惑を告発の大阪高検元公安部長、二審も実刑(asahi.com 2007年01月15日12時44分 キャッシュ

当該事件に関しては、私は、検察の責任という1点に絞って意見を述べたい。

若原正樹裁判長は「被告には検察官の職務に関連した接待だという認識があった」と判断して、一審・大阪地裁判決を支持し、被告側の控訴を棄却したが、「被告が高知、高松両地検で次席検事だった頃に直接体験した限度で、調活費の不正流用があった」と、検察の公費流用の一部を認定している。
また、「一方で、検察庁幹部の私的な飲食費や遊興費などに調活費が流用されたとする疑惑が表面化した99年度以降、調活費が大幅に減額していることを挙げ、調活費の本来の目的、必要性には疑問が生じる」と指摘している。

三井氏が、「検察の調査活動費(調活費)の流用疑惑を公表しようとしたことへの口封じのための逮捕、起訴だった」と無罪を主張していたため、今回の判決結果も、冤罪かどうかに関心が置かれ、肝心の検察の責任問題がぼけてしまっている観がある。

まず、三井氏が有罪であっても、検察の調査活動費の流用疑惑を裁判所が認めたのだから、検察としては当然その責任を負わねばなるまい。
組織ぐるみの調活費流用は、国民の税金の横領という犯罪行為であり、許されるべき行為ではない。三井氏の有罪、無罪にかかわらず、厳しく追及されなければならない問題である。

調活費流用疑惑が表面化した99年度以降、調活費が大幅に減額しているという事実は、検察自身もその事実を認めている証拠でもある。
が、それを自ら公表せず、表面化した後に調活費を大幅に減額するというのは、なしくずしにうやむやにするずるいやり方であり、事実を明らかにして謝罪し、責任を取るという謙虚な対応ではない。

不正行為による責任問題は、関心をほかへそらし、先送りして曖昧にしてしまうというのが、官僚の常套手段である。

調活費の流用疑惑を公表しようとした三井氏を逮捕、起訴したのは、三井氏のいう「口封じのための逮捕、起訴」というよりも、三井氏個人の収賄罪等に世間の関心をそらし、時間を稼いで責任をうやむやにするのが目的だと思う。

有罪であれ、無罪であれ、この種の事件では決着するまでに5年~10年はかかる。
たとえ、事件のでっち上げが証明され、三井氏が無罪になっても、その頃には疑惑発覚当時の張本人はいないのだ。
転勤か、退職か、天下りかで、責任を追及しようにも、肝心の本人がいなくなってしまっている。時効が成立している可能性もある。

官僚の場合は、先送りに必要な人員は組織の人間を使い、費用は国民の税金を使えるから、裁判が長引けば長引くほど有利になる。自費で貴重な自分の時間を犠牲にして闘う個人とは、本質的に違うのだ。

世論、マスコミは、そういった検察官僚の汚いやり方に惑わされてはならない。仮に一部でも、二審で調活費の流用疑惑が認定された以上、今こそ、躊躇なく、検察の責任を追及しなければならないのである。

もう一つ、世間が見落としている点がある。
三井氏が有罪になったということは、調活費の流用疑惑以外の責任が、検察に発生してくるという点である。

高検の現職公安部長が収賄等の犯罪事件を起こしたということは、その直属の上司や検事総長の指導監督責任も、当然免れ得ないものになってくる。

市や県の自治体で収賄罪で職員が有罪になれば、直属の上司や市長、知事等も何らかの責任を負わねばならない。懲戒の軽重はあるものの、現実に、何らかの責任は取らされている。

検察であれば、収賄罪で有罪になっても、上司らは何ら責任を負わなくてもよいのか。
むしろ、犯罪者を取り締まる検察官の犯罪のほうが、より深刻な問題であり、監督者の責任も、より重大な問題といえるのではないだろうか。

この点についても、世間、マスコミがほとんど取り上げていないのが、私には不思議でならない。


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検察官は卑怯者:後編

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検察官は、一度起訴すると、なりふりかまわず被告人を有罪にしようとする。
被告人に有利な証拠は一切提出しない。不利な証拠だけを提出し、被告人が自分に有利な証拠を出してきた場合は、信用性いかんにかかわらず不同意にしてしまう。

私の場合は、比較的多くの証拠が採用されたほうではあったが、検察官の被告弁護側の証拠に対する反論は、およそ人間のまともな神経や正義感とは、ほど遠いものであった。

私の提出した証拠写真では、写真に写っている事実そのものを否定した

国税の職員(竹山孝特別国税調査官)が調査結果の説明を放棄して立ち上がり、体の向きを変えて応接室から帰っていくところがはっきり写っているのに、座っているときに写真撮影したなどという、その国税職員のうその主張を全面的に支持している。
竹山財務事務官らの写真は、私が座ったまま撮影したのだが、立ち上がって写しているから信用性がないともいう。現場で、座ったままの撮影と、立ち上がっての撮影の違いを、その写真に写っている状況で具体的に説明しても、認めようとはしない。

写真には、観葉植物が倒れて写っているのに、倒れていないと言い、都合が悪くなると、証拠写真は編集された可能性があるなどとも言ってくる。写真だけでなく、現像のもとになるネガフイルムまで提出しても、そのようなことをぬけぬけというのである。

パーティーションにカセットテープの当たった傷と破片がついていても、その事実を認めようとはせず、後からつけたものだと言う。
逮捕された時点で、その証拠写真を検察庁に提出しているのに、写真も後日写したものだなどと言うのである


民事事件では、つぼを割った国税の職員(竹山孝特別国税調査官)が謝罪も弁償もせずにそのまま逃げ帰っても、正当な行為だと言う。つぼを割って動揺し、仕返しを恐れて立ち去ったのであって、通常よくある行動だなどと、主張する始末である。
ひき逃げや当て逃げ事件を起こした容疑者には、動揺し、恐れをなして立ち去ったのだから正当な行為であるなどと許すはずなどないくせに、犯罪者を起訴して有罪にし、国側勝訴の判決をとるのが危ういような場合には、その場しのぎの恥も外聞もない厚かましい主張を平然とするのが検察官である。

私の一審の刑事裁判では、検察官が5人も替わった。控訴審や民事事件のほか、取調べの担当検察官も含めれば10人近い検察官と知り合ったことになる。が、私の事件を通じで知り合ったそれらの検察官は、いずれも真実がわかっていながら、平然とうそをつく、人間の良心も正義感のかけらも持ち合わせていないような卑怯者ばかりであった。

中にはうそをつくことに良心の呵責を覚え、組織の一員として、やむなく従っていただけの検察官もいたかもしれない。しかしだからといって、それが卑怯者ではないという理由にはならない。
いじめをとめると、自分がいじめられるから、しかたがなくいじめる側に味方していただけだという者が、卑怯者でないとみなされないのと同じである。

卑怯者の汚名の返上は、不合理な組織の論理には従わず、その組織を去るだけの覚悟をもって、人間の良心や法曹家としての正義を貫いて真実を追求することである。
もっとも、もともと検察官になった動機が、人に頭を下げなくてもいい、威張れる、給料がいい、官僚のエリートである、安定している、といった理由が大半であるから、それを期待することは、どだい無理な注文かも知れないが。


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検察官は卑怯者:中編

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ひと頃、いじめを苦にした小中学生の自殺が相次いだ。
弱い者いじめをする人間は、卑怯者である。
いじめられた者にいじめられるだけの何らかの非があったから、いじめた者は正義の味方だなどと思う者はいないだろう。弱い立場の人間を、立場の強い者がいじめるのは、卑怯者であり、それは正義の味方どころか、人間のくずと言わなければならない。

だが、この場合も、いじめられる側の人間が、疑いをかけられた非を事実ではなくても素直に認めてひたすら謝り、プライドを捨てて奴隷のようにいじめる側の人間に従えば、いじめられずには済むかもしれない。

検察官と被疑者は、まさにそういったいじめる側といじめられる側の関係にある。

まず、被疑者は逮捕、勾留されたうえ、接見禁止にされて外部の者との交流が遮断される。自由を失い、手足をもぎ取られた一人の弱い立場の人間を取り調べる検察官は、強大な権力を背景にし、組織ぐるみで対抗してくる。

勾留を継続するのも、釈放するのも意のままである。
マスコミに逮捕した事実を公表し、被疑者の職や地位や社会的信用を脅かす生殺与奪の権限も持っている。
起訴するかしないかも自由であり、裁判での求刑の軽重も手加減次第である。日本の裁判官は、求刑の7~8割で量刑を決める傾向が強く、求刑以上の量刑を出すことはないので、量刑の決定権も、実質的には検察官が握っている。

たとえ被疑者が暴力団等の凶暴な者であっても、被疑者の立場になれば、とらわれの一羽のかごの鳥であり、組織的な暴力を行使するすべもない。
検察官は、最高の国家権力に守られており、事件を訴えた被害者へのお礼参りは頻繁に起こるが、やくざ者を取り調べた検察官へのお礼参りは、聞いたこともない。

そういった強い立場の検察官が、極めて弱い立場の被疑者を取り調べるのである。
検察官に従順な態度を示せば問題は起きないが、被疑事実を否認して不当逮捕を訴えようものなら、その強い立場を利用して、見境のない不当な言動で対抗してくる。

「悪いようにはしない。否認すれば勾留が長くなるから、ここは一時的でも罪を認めておけ」
「否認すると、新聞に載って、職を解雇されるし、子供も学校でいじめられるぞ」
「反省がないと、執行猶予もつかない。実刑になってもいいのか」
「罪を認めないと、家族や職場の者を何度も呼んで取り調べることになる。人に迷惑をかけてもいいのか」
と、人の弱みを突いて無理やり自白させようとする。その強要ぶりは、半端ではない。

それでも否認を続ける者には、警告どおりマスコミに報道させ、社会的地位を抹殺する。異常に長期にわたって勾留し、保釈も認めさせようとはしない。
報復的な見せしめである。

嫌疑のかけられた犯行を実際に行っていて否認している者ばかりではない。
実際にやっていないから否認している者も多いのだ。
取調べの過程において発覚した証拠から、無実の疑いが濃厚になっても、検察官は自分たちの過ちを認めようともせず、都合の悪い証拠は隠蔽し、何が何でも自白させて目的をまっとうしようとするのである。


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検察官は卑怯者:前編

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裁判員制度が2年後に迫るなか、高校生が企画した「模擬裁判」が14日、東京都内で開かれた、という記事があった。

公募での出演者集めの過程において、法曹三者役での一番人気は検察官で、理由は「正義の味方だから」という。
ところが、弁護人は希望者が集まらないため、スタッフが務めた。「犯人かもしれない人を弁護する、という意義が分かりにくい」ため、人気がなかったそうだ。

この模擬裁判での法曹三者役に対する高校生の認識が、世間の認識そのもののようである。
検察官が正義の味方だというのは、犯罪者を相手にする職業柄にもよるが、テレビドラマなどで、悪と闘うヒーローとして検察官を称える筋書きが多いことも影響している。

だが、実態は、正義の味方という一般の認識とは大きくかけ離れており、検察官には卑怯者が多いというのが、私の認識である。

人間の本性が出るのは、非常時である。平時には、なかなかその人間の本性がわからない。借金で追い込まれたり、職業や地位や家族を失ったりしたときに、人間の本性が出る。
戦場という特殊な状況下でもそうだろう。必死で敵と戦わなければならない環境下でも、優しさを失わない人間もいれば、一転して平時では想像もできない残虐な行動に走る人間もいる。
友人や家族の間でも、利害が一致しているときにはわからなかった性格が、利害が対立したときに表面化してこじれるのも、その例と言えるだろう。

検察官の仕事は、犯罪事実を固めて起訴し、有罪にすることである。民事事件では、国の訴訟代理人を務めて、国側を勝訴させることである。

犯罪者を起訴して有罪にし、国側勝訴の判決をとるのが、彼らの仕事であり、それに適う結果が得られれば、平時の状態といえるのである。
そういう結果が得られるのは平時だから、このときには彼らの本性は現れない。
検察官が正義の味方のように見えるのは、普段、平時の状態しか見ていないからである。

彼らにとっての非常時は、刑事事件では、犯罪事実が固まらず、有罪に持ち込めない場合であり、民事事件では、国側を勝訴に導け
ない場合である。
この非常時に現れる態度、行動こそが、彼らの本性だ。

被疑者が被疑事実を認めている場合には表面化しない本性が、被疑者が否認し、容易に有罪に持ち込めそうにない場合に表面化するのである。

私自身の体験を語る前に、まず、冤罪を主張して闘っている法律の専門家や植草氏
の実体験を紹介したい(下記)。

(山下弁護士関係)
http://mujitu.blog81.fc2.com/

http://shinnjitu.blog80.fc2.com/blog-date-20061114.html
http://shinnjitu.blog80.fc2.com/blog-date-20061120.html

http://shinnjitu.blog80.fc2.com/blog-date-20061211.html
(植草氏関係)
http://yuutama.exblog.jp/d2007-01-15

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愛知県との仁義なき闘い:その5

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誤って削除した記事を復元しました。ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした。

1週間ほどして愛知県から文書による回答があった。

○○○○様
                                                              愛知県企画部土地利用調整課長

○○年○月○日付けで知事あて照会のありました県地価調査の鑑定評価員の指名選任の件につきまして、本職において、同調査の受託者である(社)日本不動産鑑定協会からの推薦を受けた不動産鑑定士のうちから適任者を指名選任することといたしておりますのでご了承ください。
なお、鑑定評価員の指名選任に当たり、不動産鑑定士に対する当課職員の怨恨その他不正行為は存在せず、ましてこれらが介在する余地はないことを申し添えます。

予想したとおり、当たり障りのない回答だった。
だが、それなりに効果はあった。

何日か経って、また尾藤鑑定士から電話があった。
相談したいことがあるという。
相談の内容は、森田愛知県部会長に対する懲戒の請求を取り下げてくれ、ということだった。

いくら、人望が厚く、私のことを親身になって心配してくれる尾藤鑑定士の頼みといえども、こればかりは、ただでは引き下がれなかった。

会うと、尾藤鑑定士は言った。
「村瀬課長補佐が土地利用調整課から替わった。君とやりあった山森という職員も替わったよ」
「えっ?」
私は尋ねた。
「君の件が原因だ。課長も替わったが、村瀬課長補佐なんかは、分室に異動だよ。わしを見るなり、尾藤さん、俺やんなったよ、とすっかり元気をなくしとった」
そう言って、彼は笑った。
「そうですか」
「君はやつらとの喧嘩には勝ったんだ。どうだい、ここはひとつ妥協してくれないか」

一息ついて、彼は言葉をつないだ。
「県に対しては、鑑定士なんて弱いものだよ。前にも言ったが、仮に森田県部会長の立場だったら、わしでも県の要求を突っぱねれたかどうか自信がない。それほど、やつらの圧力は強いんだ。どこの業界でも、監督官庁の役人に楯突ける人間はいない。そんなことしたら、その業界では生きていけなくなるんだよ」
「………」
「もちろん、個別に謝ったぐらいでは、君が納得しないこともわかっとる。どうだね、今度の総会の席上で、みんなの前で彼に謝罪させるという条件で、取り下げてくれないか」
そこまで言われると、取り下げないわけにはいかなかった。

地価調査の評価員は外れたが、尾藤鑑定士の言うように、木っ端役人との喧嘩には勝ったかも知れない。
怨恨その他不正行為は存在せず、ましてこれらが介在する余地はない、という回答だったが、不正行為の存在を認めたことを前提とする人事異動が行われたのだ。
それに、喧嘩の発端になった第三鑑定の報酬が、その後まもなく、倍以上に跳ね上がったのである。報酬が安すぎるという私の主張を、結果的に受け入れたということだろう。

その後のバブル経済による地価高騰で、第三鑑定の評価員は、大変懐が潤ったのだが、むろん、私にはその後復帰した地価調査の仕事以外は、ついに県からはただの1件も仕事がこなかった。

ただ、その後の地価調査の業務に関して、県の職員と接触しても、私に対しては横柄な態度をとることはなくなったし、鑑定協会の役員連中も、面と向かって理不尽なことを言ってくることもなかった。

もともと、裸一貫。
理不尽なことで信念を曲げるぐらいなら、仕事を辞める覚悟でいたのだが、信念を曲げずに支障なく仕事が続けられたのは、非常に幸運だったのかも知れない。

郵政民営化に関して、自己の利益のためなら、いとも簡単に信念を曲げる復党議員の節操のない行動等が映し出されていたが、私にはとても理解できない行為である。

理不尽な行為や他人の圧力では、絶対に信念を曲げない。
それは、今も私の信条になっている。


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